「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」…松本零士作品の“アニメブーム”はいかにして起こったか?【藤津亮太のアニメの門V 第92回】 | アニメ!アニメ!

「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」…松本零士作品の“アニメブーム”はいかにして起こったか?【藤津亮太のアニメの門V 第92回】

漫画家の松本零士さんが逝去。今回は、70年代後半から始まった“松本アニメ”ブームを振り返る。

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漫画家の松本零士が亡くなった。今回は“松本アニメ”のあり方について考えてみたい。

1977年から1984年いっぱいまで続いたアニメブームを振り返ると、映画『宇宙戦艦ヤマト』(1977)→『機動戦士ガンダム』(1979)→『超時空要塞マクロス』(1984)という流れで取り上げられることが多いが、この流れと並行して2つの潮流があり、ひとつが松本零士が原作・関与した“松本アニメ”の流れだった。ちなみにもうひとつは団塊ジュニアを中心に盛り上がった、『ドラえもん』(1979)を皮切りとする“藤子アニメ”の流れだった。

当時、“松本アニメ”がどれだけハイペースでリリースされていたのかを確認してみよう。

1977年 
『宇宙戦艦ヤマト』(映画)、『惑星ロボ ダンガードA』
1978年 
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(映画)、『宇宙戦艦ヤマト2』、『SF西遊記スタージンガー』、『宇宙海賊キャプテンハーロック』、『銀河鉄道999』
1979年 
『SF西遊記スタージンガーII』、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』(TVスペシャル)、『銀河鉄道999』(映画)
1980年 
『マリンスノーの伝説』(TVスペシャル)、『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』、『ヤマトよ永遠に』(映画)
1981年 
『新竹取物語 1000年女王』、『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』(映画)
1982年 
『1000年女王』(映画)、『わが青春のアルカディア』(映画)、『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』
1983年 
『宇宙戦艦ヤマト 完結編』


原作など深くコミットした作品から、アイデアなどを提供した作品、あるいはキャラクターデザインのみを担当した作品まで関わり方はそれぞれ濃淡があるが、わずか6年ほど――TVシリーズの『宇宙戦艦ヤマト』からカウントしても10年に満たない――期間に、これだけの作品がリリースされたのである。当時の小中学生の感覚でいうと、半年に1回ぐらいのペースで新作がリリースされている印象だった。

どうしてここまで“松本アニメ”が増えたのか。もちろん『ヤマト』と『999』がヒットして、制作会社などから「二の矢」「三の矢」を求められた、ということはあるだろう。ただ一方で、松本本人がアニメに強い関心を持っていたことも無視できない。松本は自分の手でアニメを作りたいという思いを長年抱えていた。自分でスタジオを起こすまではしなかったが、アニメに対する執着は手塚治虫に近いところがある。このスタンスは同じ1938年1月25日に生まれた石ノ森章太郎とも、少し下の世代になる永井豪とも異なっている。

自伝『遠く時の輪の接するところ』(東京書籍)によると、松本とアニメの最初の出会いは、1943年4月公開の『くもとちゅうりっぷ』(政岡憲三監督)。当時、父親の仕事(陸軍航空隊のパイロット)の都合で兵庫県明石市に住んでいた松本は、そこの劇場で同作を見たという。この作品の印象は高校1年生の時のデビュー作『蜜蜂の冒険』に無意識のうちの影響していたそうで、そのことを指摘したのは、やはり同じ明石の映画館で『くもとちゅうりっぷ』を見ていた手塚だったという。
またその後、福岡県小倉市(現・北九州市)に引っ越した後、小学校低学年の時にフライシャー兄弟の『ガリバー旅行記』(最初の公開は1939年)を見ており、これも強い印象を受けたという。

漫画家として上京してからも、アニメへの関心は持ち続けていた。自伝には、洋書『アート・オブ・アニメーション』(おそらくボブ・トーマスの『WALT DISNEY the art of ANIMATION』)を予約したら、予約台帳に手塚治虫、藤子不二雄、石森章太郎の名前が並んでいたというエピソードが紹介されている。またジャンク屋からフィルムを買っていたところ、同じようにフィルムを集めていた手塚、石森ともども同じ日に警察に踏み込まれたこともあったという。こちらは「自称三大アニメマニア芋づる事件」として書かれている。

このようなアニメにまつわるエピソードの中でも印象的なのは、ベルハウエルの16mmカメラを購入し、撮影台を自作したというエピソードだろう。完成したのは1959年10月23日のことだ。
「しかし、アニメーションのセルを何枚か作ってみて、これはとんでもない仕事だと気がついた。十五秒分ぐらいを作ってみたのだが、とてもじゃないが金がもたない。8ミリでもだめで、16ミリだといよいよダメだとわかった。アニメーションを作るには金がかかる、という現実に気づいた。それまではひとりきりで作る気でいた。だが、これは大仕事なんだと知り、呆然としてしまった。」(同書)

しかし松本はこれにも懲りず、その後も失業状態になった折りには、部屋にあるものを質屋で換金して、撮影台2号の制作を行っている。ただし今度は、こちらは試運転で下宿のヒューズを飛ばしてしまったのだった。

このようにアニメに強い関心を持っていた松本だから、『宇宙戦艦ヤマト』の企画に美術(プロダクションデザイン全般)で声がかかった時に、ぐっと前のめりになったことも頷ける。そしてこの後、1976年に松本は東映動画から『ダンガードA』のオファーを受ける。東映動画は『西遊記』の時に手塚に声をかけたことから始まり、石森(石ノ森)を経て、永井豪と『デビルマン』『マジンガーZ』という大きなヒットを生み出していた。これには漫画家をクリエイティブの柱として招聘(しょうへい)することで、魅力的な作品を作り出そうという発想があった。松本の『ダンガードA』は永井の関わった『UFOロボ グレンダイザー』の後番組だった。

東映動画のこのオファーがあった時も、松本は自身のアニメを作るという夢を手放さなかった。『ダンガードA』の依頼に対し、松本は逆に『銀河鉄道999』と『宇宙海賊キャプテンハーロック』を提案したのである。しかしこの企画は成立せず、どちらも1977年から漫画として連載が始まることになった。

そして1977年の映画『ヤマト』がヒットする、これが後押しとなり『999』も『ハーロック』もアニメ化企画が動き出した。さらにそこに『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』のヒットによる世界的ビジュアルSFブームが到来し、この追い風も加わって“松本アニメ”は一気にメジャーへと駆け上っていく。これは、松本が「自分のアニメを作りたい」という夢を手放さず、そこに自分なりに執着し続けたからこその結果であった。

では現在から振り返った時、“松本アニメ”はアニメの歴史においてどのような位置を占めているだろうか。
“松本アニメ”の特徴はそこに描かれる“ロマン”に特徴がある。個別の作品ごとにキャラクターや主題の魅力というものが存在するが、そこにはアニメのスタッフが関与している度合いも大きい。だがそれら“松本アニメ”に共通するのは、個別の要素を大きく包み込んでいる“ロマン”の存在だ。

“ロマン”とはなんだろうか。本稿ではそれを、愛や死、無限や理想といった大きな概念を主観的に捉え、そこに身を委ねた時に感じる感情というふうに定義をしよう。アニメにおいてこの“ロマン”が成立するには2つ条件がある。

ひとつは、アニメ自体が一定以上の表現力を持っていること。無言で語りかける美術。繊細な心情を感じさせるキャラクター。こういった表現ができるようにならないと観客に“ロマン”は伝えることはできない。もうひとつは作品を受け取る側の感性だ。作品がいかに“ロマン”を投げかけても、そうした表現を主体的にキャッチし、そこに身を委ねることができる観客がいなくては“ロマン”は成立しない。

1970年代後半は、この「表現の深化」と「ティーンエイジャーの観客が当たり前化する」が同時に起きていた時期である。つまり「松本が描きたいこと」「それを伝える表現の成熟」「それを受け止める観客」という3つの要素が見事に足並みが揃った結果だった。

これは“松本アニメ”だけに限ったことではない、似たような時期に長浜忠夫監督は『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976)、『超電磁マシーンボルテスV』(1977)、『闘将ダイモス』(1978)を手掛けているが、この3作は後にまとめて「長浜ロマンロボシリーズ」と呼ばれることもある。後からつけられた呼び名だが、そこで“ロマン”という言葉が選ばれているのはやはり、作品に長浜監督なりの“ロマン”が込められていたからだ。

しかし、この“ロマン”の時代は、それほど長続きしなかった。アニメ表現の歴史は歩みを止めず、すぐにリアリズムに立脚した抑えた散文的な語り口が広まり始めたのだ。それを代表する作品が『機動戦士ガンダム』(1979)である。リアリズムに慣れると、“ロマン”はその甘さ故にいささか色あせて見えることになる。こうして“ロマン”は、その後の数年のうちに徐々に退潮していく。「冷めた視線を装ってノッてみせる」1980年代の始まりである。

つまり“松本アニメ”は、アニメが「小学生までのもの」から脱却する時に、ある世代の前に“わたしたちのアニメ”として登場し、そしてリアリズムが当たり前になる過程でフェイドアウトしていった存在なのだ。
もしリアリズムが広がるのが遅かったら、“松本アニメ”が現在のアニメのベースになっていただろうか? それはそれでありえないようにも思う。漫画を読めばわかる通り松本作品はかなり個性的で、誰にも真似できるものではない(パロディにはできても)。そういう意味で、その魅力は本質的にマイナー指向なものだといえる。

たまたまいくつかの条件が重なった結果、アニメ化作品が1977年からの数年間に圧倒的なポピュラリティを得たが、どこかでブームが落ち着けば、また“個性的な作品”というポジションに自然と落ち着いたのではないだろうか。こうして考えてみると“松本アニメ”は一定の世代にとって、強烈に出会いそして静かに別れてしまった存在で、それはつまり『999』のメーテルのような“青春の幻影”ではなかったか、という気もするのだった。甘く苦い“初恋”の記憶が蘇るような、そんな訃報であった。


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[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』、『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』などがある。ある。最新著書は『アニメと戦争』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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