「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは【藤津亮太のアニメの門V 第88回】 | アニメ!アニメ!

「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは【藤津亮太のアニメの門V 第88回】

新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』が11月11日より公開中。本稿では、監督の過去作である『星を追う子ども』『君の名は。』『天気の子』のストーリーを振り返りながら、物語を読み解いていく。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※本稿は『星を追う子ども』『君の名は。』『すずめの戸締まり』の重要な部分に触れています。3作品を未視聴の方はネタバレになる可能性があります。

■新海監督が描いてきた「生者」と「死者」


「生きている者」とは、つまり「生き残った者」なのだ。『すずめの戸締まり』を見てそう強く感じた。

プロデビュー作の『ほしのこえ』から一貫して「喪失感」を扱ってきた新海誠監督だが、その「喪失感」を死に託したのは、『星を追う子ども』が最初だった。
前作『天気の子』が、長編第1作『雲の向こう、約束の場所』を参照するとわかりやすかったように、最新作『すずめの戸締まり』は、『星を追う子ども』を参照すると、作品の立っている場所がクリアに見えてくる。なにしろどちらも、主人公の少女はネコ的な存在に導かれて旅立ち、ラスト近くで「行ってきます」と発言する作品なのだ。

『星を追う子供』は、主人公の明日菜が地下世界アガルタへと赴く物語であり、その旅路は作中の台詞にある通り「さよならを知るための旅」として描かれている。
明日菜は、作品序盤でアガルタからやってきた少年シュンと出会い、心を通わせる。だが既に病んでいたシュンは、明日菜と別れた後、死んでしまう。シュンの死は、明日菜の中に眠っていた、幼い日の父の死の記憶も蘇らせ、彼女は死者の復活も可能であるというアガルタに漠然と関心を持つようになる。そして明日菜は、かねてからアガルタについて研究し、死んだ妻リサの復活を願っている森崎に巻き込まれる形で、彼の地に赴くことになる。

映画の終盤、明日菜は、自分がこの旅路を選んだのは「寂しかったからだ」と自覚をする。父娘の関係を明確に結ぶ前に死んだ父、友達ともいえない交流のまま死んでしまったシュン。「関係性を結ぶ前に失ってしまう」という新海監督が繰り返し描いてきたモチーフが、本作ではストーリー展開の中から浮かび上がってくる。

最終的に森崎と明日菜は、アガルタの世界の果て「フィニス・テラ」と呼ばれる巨大な竪穴へと到着する。「生死の門」はフィニス・テラの断崖を降りたその底に存在するのだ。森崎が生死の門へと入り込むと、そこは満天の星に光の帯が流れ、そしてピンク色の星が輝いている。その昼でも夜でもない美しい空景は、『すずめの戸締まり』で「後ろ戸」の向こうに広がる「常世の空」とよく似ている(美術監督は両作とも丹治匠)。

明日菜の身体を依り代に、妻リサの復活を果たそうとする森崎。森崎の前に死んだはずのリサが生前の姿で蘇る。それと引き換えにリサの魂に身体乗っ取られた明日菜の魂は、死んだシュンと再会を果たしていた。これが明日菜と森崎の「さよならを知る旅」の最終幕である。

作中でオルフェウスの神話やイザナギ・イザナミの神話が引用されていることからもわかる通り、『星を追う子ども』では、死者というのは死んでもある特殊な状態で“存在”しており、ある種の手続きを経ることで生者の側へと呼び戻すことができる存在として描かれている。別にこれは本作だけに限った話ではなく、設定はフィクションではよく見られるものだ。それは、我々の中に強く「死者を思う気持ち」が存在していることの反映である。

しかし当然ながら、死者の復活は現実にはありえない。この「死者を思う気持ち」の強さをどう描くかというポイントは、そこにロマンチックに寄り添いすぎではないか、という批判が出たのが『君の名は。』に続いている。

『君の名は。』は、3年前に起きた天災(彗星のかけらの落下)を巡る物語である。本作は、実際には時空間が交錯している状況を、あえて空間だけが交錯しているかのように見せる、一種の叙述トリックを仕掛けて物語を進めていく。このためリニアに映画のストーリーを追っていくと、一旦は天災で死者が発生したものの、外部からの歴史介入の結果、死者をなかったことにしてしまう、という展開に見えてしまう。

本作は「天災に巻き込まれた当事者がなんとか被害を出さないようにする」というストーリーと、「天災による死者への想像力を持つこと(忘却に抗うこと)」という要点を、先述のトリッキーな語り口でひとつにまとめたところに――そしてそれをポピュラリティーあるボーイ・ミーツ・ガールの形式で描いたところに――特徴があり、「死者をなかったことにしてしまう」と見えるのは、その剛腕な語りの副産物だったといえる。ただしその点に注目すれば、本作もまた、特殊な手続きを経て、生者と死者が顔を合わせる物語ではあった。

■物語は「死者への願い」の向こう側


前置きが長くなったが『すずめの戸締まり』は、このような2作の「死者の描き方」を踏まえて見ると、なにを描こうとしていたかがかなり明瞭に見えてくる。

『すずめの戸締まり』の主人公は九州ので暮らす17歳の岩戸鈴芽。映画は冒頭、生死の門の中のような神秘的な空の下を、幼い少女が母親を探して歩いているところから始まる。やがて彼女を迎えに来た長い髪の女性が現れ、ここで鈴芽は目を覚ます。それまでの描写は彼女の夢であり、観客はそれが同時に、彼女自身の記憶であろうと想定して本作を見ていくことになる。

映画を見ていくとだんだんわかってくるが、彼女は幼い時、(最終的に示される日付から)東日本大震災に遭い母を失っているのである。時折、画面に出る地図から彼女は当時、宮城県北部から岩手県のあたりに住んでいたと思われる。そして宮崎の叔母に引き取られ、現在は一緒に暮らしているのである。

そんな鈴芽が登校中に、廃墟を探しているという不思議な青年と出会う。この時、鈴芽はまだ知らなかったが、宗像草太というこの青年は、災厄をもたらす「後ろ戸」を閉じるために旅をしている“閉じ師”であった。

後ろ戸は誰からも見捨てられたような廃墟に出現する。地元に出現した後ろ戸をなんとか閉じた鈴芽と草太だったが、その時、後ろ戸を封じていた「西の要石」が、ネコの姿で逃げ出してしまう。こうして鈴芽はネコ――ダイジンという名前で呼ばれる――を追って「戸締まりの旅」に出ることになる、そしてその旅は、愛媛、神戸、東京を経て、東北へと至ることになる。

作中で、後ろ戸の向こうに見える風景は「常世」と呼ばれる。そこは「死者の世界」で、そこにはすべての時間が存在しているのだと説明される。この説明から観客は、冒頭に示される夢のシーンについて、鈴芽は震災直後に幼い頃に常世に入り、そこで死んだ母と会ったのであろう、と予測して本作を見ることになる。鈴芽自身も夢に関係したポイントでしばしば「お母さん」と語っている。だから観客は、今回もまた「さよならを知る旅」なのであろう、と思いながら本作を見ることになる。

しかし、この予想はきれいに覆される。本作は徹底して生者の物語なのである。我々のロマンに応えるような死者の(仮初の)復活は存在しない。

死は我々の認識の外にあるもので、絶対に知り得ない。その点で、死そのものは「無」である。だからこそ我々は、自分の生を照射するため「死者の世界」を夢想し、死者の再生や対話を神話やフィクションの形で描いてきたのだ。しかし、それはつまり我々の「願い」と「想像力」の産物に過ぎない。『すずめの戸締まり』は、そういう「願い」の向こうにある、生きた人たち(=生き残った人たち)が日々を過ごす現実に立脚しているのだ。

鈴芽は旅の中で、愛媛の高校生の千果、神戸のシングルマザー、ルミ――2人の子どもを抱えスナックをやっている――と出会う。前半で描かれるこの2人との交流は、食事シーンが印象的なこともあり、「人の暮らし」というものが感じられるものだ。愛媛や神戸の街並みが美しく描かれるのも、そこにある無数の暮らしが愛おしいものだからにほかならない。その愛おしさは、鈴芽が後ろ戸を閉じて、災厄をもたらす“巨大なミミズ”を退けようとする動機にもなっている。

この前半までの「人の暮らしの愛おしさ」を踏まえた上で、映画は、震災に見舞われた鈴芽のかつての家へと向かっていく。そこは現在人は住んでおらず、残された廃墟と草木が茂るだけの場所だ。この展開は、これまでだったら、母=死者に会う旅になったであろうが、本作では、常世で要石となってしまった草太=生者を取り戻す旅として本作は描かれる。この展開は前作『天気の子』を経てのものだと考えると、わかりやすい。

この世界には生者がいて、その土地に様々な思いを投影して生きている。そこで生者を支え、励まし、救おうとするのも、生者である。本作は徹頭徹尾、生者の物語であろうとしている。

『星を追う子ども』のラストで、シュウの弟シンは森崎に「喪失を抱えてなお生きろ」と神の最後の言葉を告げる。そして「それは人に与えられた呪いだ」と続ける。しかし明日菜はその言葉を「それは祝福でもあるんだと思う」と引き取る。同作ではそれが生き残った者たちがたどり着いた結論だった。

この台詞はとても大事な言葉だが、物語そのものがこの台詞のために用意されたようなところがあり、いさささか生硬に感じられた。『すずめの戸締まり』では、この台詞で伝えようとしたことが、より生々しい現実を伴って描かれている。この台詞を踏まえるなら、鈴芽の日本縦断は、それは失われた人、人の住まなくなった土地が生き残った生者に残した「呪い」を、「祝福」へと読み替える旅路でもあった。

世界には生者しか存在しない。死とは「無」である。しかし 「生きている者」、つまり「生き残った者」の中に、死者は、呪い/祝福として確実に刻まれているのだ。私たちはそのようにして生きている。

《藤津亮太》

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