ふたりに比べてトツ子の“色”にまつわる悩みは普遍性が低く抽象的だ。さらに冒頭で示されるトツ子の悩みは二層になっている。第一に「人に色を感じてしまう(が普通と違うので理解されない)」があり、そこに加えて「もし、自分の色が見えるなら、どんな色なんだろう」という第二の悩みがある。ただ後者は「悩み」というにはあまりにふわりと、ある種の憧れのように語られているので、切迫感は伝わってこないが、映画を丁寧に見ると、むしろ「人に色を感じること」以上に、「自分の色がわからない」ということが、トツ子の心の奥底に刺さっていることが見えてくる。
トツ子は、クリスマスの夜、なんと語っただろうか。トツ子はふたりに「人を色で見るクセがある」という話をした。しかしここで彼女は「自分の色がわからない」という話はしていないのである。トツ子は、(おそらく無意識に)自分の色の話をしなかった。このことからトツ子は、自分の思う以上に「自分の色がわからない」ということが自分を縛っているということに気づいていないのである。
例えば、冒頭で礼拝堂でトツ子が祈っているときは、ニーバーの祈りの前半「変えることのできないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏をお与えください」を口にしている。この後、彼女の色をめぐるエピソードが説明されることを考えると、このときトツ子は「自分の色が見えないこと」も「変えることのできないもの」のひとつだと考え、それをちゃんと受け入れようとしているのではないか。その後のトツ子の様子をみると、他人の色が見えることは、むしろ喜びで、そこに「変えることのできないもの」としての縛りを感じているようには見えないから、ここはやはり「自分の色」を中心に考えていたのではないかと考えられる。
ここで疑問に感じるのは、なぜトツ子は「自分の色が見えない」のか。これは作中ではあまり明確に示されていない。自分の顔が自分では見られないようなものかとも想像できるが、映像を見ると、そうでもないようにも読める。
冒頭の回想には、自分の色が知りたくて顔にシールを貼ってみているトツ子の様子が描かれている。こういう描写と前後して、バレエシューズを使ってトツ子がバレエを辞めた、ということが暗示されるカットがある。
一方で、彼女の見ている色はある種の好意や憧れに根ざしているものであろうことは説明されている。子供時代のバレエ教室のお姉さんが、見事に踊る様子がきれいな色で描かれたりもしている。
このふたつが並行して描かれているということは、バレエに挫折したことで生まれた「自分は憧れたお姉さんのようにはなれない」という挫折の感情が、自分の色を見えなくしてしまったのではないか。トラウマというほど重くもないが、心の中の小さなトゲ。おそらく周囲もそれがトツ子を縛っているとは思ってもいない出来事。それがトツ子を小さく、でもしっかりと縛っている。こう考えてみると、不思議と抽象的だった「自分の色が見えない」という悩みが具体的なものとして理解できるようになる。