トツ子のことを考えている。
『きみの色』の主人公。タイトルも、彼女が周囲の人の存在を、いろいろな“色”として感じていることにちなんでいる。
小さい頃から、他人の存在を色で感じていたトツ子。でもまわりから「ヘン」といわれることが多く、自分からそのことを話すことも次第に少なくなってしまった。……と、本編のあらすじを書くならこのような導入になるだろうが、実際の映像の導入はもうちょっと複雑だ。
ファーストカットは、礼拝堂で祈るトツ子の姿(ここでその後幾度も繰り返される「ニーバーの祈り」が登場する)が描かれる。そこから幼い日にバレエをやっていた記憶と、それを辞めてしまった記憶が映像で示される。このあとからトツ子の「色」をめぐる述懐が始まるが、「色が見える女の子」と並行して、「バレエを辞めてしまった女の子」のトツ子描かれているということは、とても重要なポイントだと思う。
どうしてこの冒頭の語り順にこだわるかといえば、決して饒舌ではないこの映画の中で、そこにトツ子を理解する鍵があるからだ。思えば『リズと青い鳥』も冒頭のシーン、音楽室を開けたのが誰かということに、さりげなく映画全体の進む方向性を暗示していた。本作も、この冒頭に映画全体を方向づける意図があると考えてもおかしくはないだろう。
トツ子とバンドを組むふたりも、それぞれ葛藤を抱えている。周囲から見られる自分の姿と、自分自身の実感のギャップに耐えられず学校を辞めてしまったきみ。医者になることを求められながらも、音楽が好きでそれを言い出せないルイ。若者らしいふたりの悩みも、この映画の重要な要素ではある。ただ、このふたりの悩みは、トツ子の悩みと比べると、ある意味“わかりやすい”のである。
だからこそ、当たり前の(それはつまり“ありきたりの”と紙一重だ)衝突や葛藤などにフォーカスを当てることなく、映画はスパッと物語を進めた。むしろこの映画はコンフリクトに意味を求めているのではなく、悩みそのものに向けてそれぞれの心が澄んでいく時間や空気にこそ“ドラマ”を見ている。
その“ドラマ”のピークが、クリスマスの夜のシーンだ。バンドの練習のため島の教会にやってきたトツ子ときみ。しかし天候が悪化し、ふたりは船で帰れなくなってしまう。そのためルイも交えて、3人は教会で夜を過ごすことになる。ロウソクの明かりの中、それぞれが抱えている悩みを話す3人。ある種の宗教が生まれる瞬間にも似た神聖な時間。この時間と空気こそ、本作が描く“ドラマ”なのである。それをルイは「僕たちは好きと秘密を共有してるんだ」と語る。
この世界に3人しかいないような静かな夜を経て、ルイときみは、それぞれの思いを家族にちゃんと告げることになる。そして物語はクライマックスの学園祭へ向かう――のだが、ここであらためてトツ子の悩みについて考えたい。