「もういっぽん!」ごく“普通”に日常、喜怒哀楽を共有できる青春アニメ【藤津亮太のアニメの門V 第91回】 | アニメ!アニメ!

「もういっぽん!」ごく“普通”に日常、喜怒哀楽を共有できる青春アニメ【藤津亮太のアニメの門V 第91回】

先日、ラジオで1月期の注目作のひとつとして『もういっぽん!』を取り上げた。そのときにはあまり説明しなかったが、これから書くような少々回りくどいことを考えた上で、『もういっぽん!』を推したいと思ったのだ。その「回りくどいこと」をこれから書こうと思う。

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先日、ラジオで1月期の注目作のひとつとして『もういっぽん!』を取り上げた。そのときにはあまり説明しなかったが、これから書くような少々回りくどいことを考えた上で、『もういっぽん!』を推したいと思ったのだ。その「回りくどいこと」をこれから書こうと思う。

折に触れて読み返している『夢のあとで映画が始まる』(筑摩書房、畑中佳樹)にこんな一節がある。

「一九八一年暮れ、『レイダース/失われたアーク』を見たときに、はじめて、ほんの少し、なにか幸福になり切れないものを感じた。もちろん、熱狂的に五回も有楽座に通いはしたのだが、今にして思えば、なにか困ったな、これはちがうな、という違和の感じがぼくの体に生じはじめていた。なんていうか、ぼくの好きでたまらないもの、ぼくを夢中にさせるものが、あまりにも大々的に(引用者注:原文は傍点)繰り広げられすぎているということに、ぼくは一抹の不快感をもったのだと思う」

この「ぼくの好きでたまらないもの、ぼくを夢中にさせるものが、あまりにも大々的に(引用者注:原文は傍点)繰り広げられすぎている」というくだりは、百花繚乱の深夜アニメを見るときいつも頭の片隅に浮かんでは消えるフレーズだ。

畑中はこの後、手短に映画の歴史を記述していく。人々が自然に映画館に足を運んでいた時代、そのころはスタジオシステムが生きていて、A級B級の作品がシステムを背景に次々と作られていた。
『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』は、スタジオシステムが過去になった後に、そのころ作られていたB級娯楽映画を大々的に蘇らせた「一種の奇抜なイベント」だったのではないか。それを「これがおもしろい映画さだ」と誤解したとことが、先述の違和感、不安感につながったのではないか、と推論する。そして「漠然とした言い方になるが、ぼくにとって、B級映画とは『普通の映画』という意味である」と、いう形で「普通の映画」という単語を示す。
畑中の文章は、1980年代のアメリカ映画の変化についての個人的分析だが、読んでいるとどうしても、TVアニメの変遷が脳裏に浮かんでしまう。

1990年代末から(現在のスタイルの)深夜アニメが本格的に始まり、ビジネスモデルの変化もあって「僕らの大好きなものが大々的に繰り広げられるように」になった。それは新しい扉を開いたおもしろさもあったのだけれど、そうなったことで「見えにくくなってしまったもの」も間違いなくある。その見えにくくなってしまったなにかを畑中にならって「普通のアニメ」と言いたくなる気持ちはある。

ここで「普通のアニメ」といって思い受かべる作品は世代によって様々だろうけれど、「派手に魅せる」でも「鋭く尖る」でも「ヒリヒリと刺激する」でもなく、ごく「普通」に、登場人物たちとその日常や喜怒哀楽を共有できるアニメとでもいえばいいだろうか。

『もういっぽん!』を紹介すると決めたときには、こんなふうに畑中がアメリカ映画について語ったロジックが頭の中にあったのだ。
ちょっと失礼なニュアンスにも聞こえる「埋もれてしまいそうで」というフレーズを使ってしまったのも、「ぼくの体がほっしていたのは『普通の映画』である。だが、世間では『普通の映画』を少しも喜ばなかった。(略)無感覚だった」と記した畑中の危機感が自分の中にもあったからだ。もちろんこの「埋もれてしまいそう」は作品の側に起因することというより、刺激に慣れすぎた僕ら観客の側のアンテナの側に様々な要因があるところではある。

しかし幸い『もういっぽん!』を楽しんでいる視聴者は多そうだ。本編もこの調子で最終回まで進んでほしいと思う。原作はまだまだ長いから、おそらく序盤だけでアニメの最終回を迎えることになるだろうけれど、それはそれでこのアニメの傷にはならないように思う。なぜなら本作は、登場人物たちが一生懸命柔道をやっていなければ絶対味わえなかったであろう“青春の一瞬”を魅力的に取り出してみせるところに特徴があるからだ。

この“一瞬”は、例えば第1話だと、主人公の園田未知がなりゆきで氷浦永遠に投げ技で一本を決めてしまうところがそうだ。ここは原作から逆算する形で、窓から差し込んだ光を演出に取り入れている。そもそも第1話は原作のカラーページを踏まえたアバンタイトルの時点から、武道場の窓から差し込む光を印象的に扱っていて、このシリーズはこの光の演出が彼女たちの“一瞬”を際立てている。またポイントでは光と影の間に紫のラインが入ることで、“キラキラ感”を増しているのもポイントだ。

そもそもどうして第1話で、未知が永遠に背負投を決めることになるかというと、きっかけは剣道部の南雲安奈と柔道部を復活させたい永遠の間で、未知の引っ張り合いになったからだ。この時、永遠は窓から差す光の側にいて、南雲は影の側にいる。そもそも高校でも柔道をやるとは思っていなかった未知は、その間にいる。

ここで未知と同じ中学、同じ柔道部だった滝川早苗が、ひょいと南雲に足払いをかける。これでバランスをくずした未知は一気に光の中へと倒れ込み、その勢いで、中学最後の試合で負けた永遠を投げてしまうのだった。そして未知も影の中から光の中へと一歩足を踏み出して「もっかいやらない?」と、未知に声をかける。光の中へ入っていく動きを、改めて柔道を始めようという決意を表す動きとして扱って、第1話にふさわしい見どころとなっていた。

このほかでも、今のところ毎話、どこか興味深く見られる部分があり、気を配って作られていることが伝わってくる。
第2話では、屋上で永遠が未知に謝るところが、会話だけのシーンを、永遠の画面の上での立ち位置の変化や、ポーズの変化(立っているところから土下座して、また立つ)で見せていておもしろかった。第3話は南雲と永遠の電車でのシーンが、光を強調し、南雲を影に永遠を光の中に置くことで、2人のコントラストを強調して劇的な画面になっていた。

第4話は、永遠とかつての先輩・天音恵梨佳との試合の前半、大胆なカメラワークから始まり、モノローグを排した息遣いだけの激しい攻防を見せるくだりが印象的。第5話は未知の出場する大将戦が盛り上がるが、やはりこの作品らしいのは、予選を終えて帰りの電車で寝ている未知たちの様子だろう。原作のドラマチックな見開きを、アニメではやさしい夕日の色合いとアップで表現している。

ストレートな感情を丁寧な演出で浮き彫りにして共感を誘う本作は、「斬新さ」や「社会性」とは関係ないけれど、とても魅力的なアニメとして仕上がっている(仕上げようとしている意思が伝わってくる)作品なのだ。

《藤津亮太》

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