「チャンネルはいつもアニメ」 藤津亮太のアニメ評論の世界 | アニメ!アニメ!

「チャンネルはいつもアニメ」 藤津亮太のアニメ評論の世界

『チャンネルはいつもアニメ-ゼロ年代アニメ時評-』(NTT出版)は、アニメ評論家 藤津亮太のアニメ評論集だ。前著『「アニメ評論家」宣言』から実に7年ぶりとなる。

レビュー 書評
 9月21日に発売された『チャンネルはいつもアニメ-ゼロ年代アニメ時評-』(NTT出版)は、アニメ評論家 藤津亮太のアニメ評論集だ。前著『「アニメ評論家」宣言』から実に7年ぶりとなる。本書では2003年の『「アニメ評論家」宣言』で見せた、藤津の作品への論理的なアプローチがより明確になった。
 藤津は本書の冒頭で「安易な辛口な批評を書かないこと」と述べている。その理由は本書を読んで確認して貰うとして、実はだからといって藤津が本書のなかで取りあげる作品も、さして誉めていないことが多い。アニメの表現者にやさしいと世間では思われがちな藤津亮太の意外な一面だ。

 これは藤津の評論が単純な作品の善し悪しの判断に立脚してないことに由来する。藤津のアニメ評論は、作品を通すことで、アニメあるいはアニメを取り巻く現象の構造を読み解くものだ。つまり、個別作品の評価ではなく、作品が持つ意味、作品に表れてくるものの背景である。
 例えば、2005年7月の時評として、『機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-』が取りあげられている。当時同作は予想を上回るヒットをし、作品の評価も高かった。その評論として「富野監督の復活」、「再構築の巧みさ」を挙げることは、当然予想される。しかし、ここで藤津は映画ヒットの理由に関心を向け、それをさらに観客が映画に求める「保守性」と「新奇性」の相反する要素のバランスに展開して行く。ここで藤津の評論は特定の作品を超える。
 藤津の文章は個別の作品によりかかりながら、時として作品から離れる。しかし、アニメからは離れない。作品を酷評することもなければ、それに熱狂することもない。その巧みなバランスと冷ややかさが、藤津の主張に説得力を与える。

 さらに評論の時代性が『チャンネルはいつもアニメ』の重要な部分となっている。収録された文章はアニメ月刊誌「Newtype」(角川書店)と「アニメージュ」(徳間書店)に月ごとに掲載されたものだ。その期間は2004年秋から2010年春まで5年以上にわたる。それぞれの文章は、それぞれの時代の空気を反映する。
 2006年8月に「『ゲド戦記』、予告のアイロニー」を書いた時、世間で作品の評価を巡っては紛糾していたはずだ。2007年の「メロドラマと『コードギアス』」の執筆時は、コードギアスブームの真っただ中に居ただろう。
 評論する作品をあとから観ることは出来る。例えば、『風の谷のナウシカ』のBlu-ray Discを観て、物語の裏にある自然破壊に対するメッセージを読み取ることは可能だ。しかし、何かが欠けている。つまり、あとから観て評論することと時代の中で評論することは何か違いがある。それはどちらかが優れているでなく質の異なる作業なのだ。
 問題は同時代性を持ったアニメ評論が、現状でほとんど行われていないことだ。さほど大きくない市場、作品の多くがエンタテイメントのテレビシリーズゆえに評論があまり必要とされてないというアニメ文化を取り巻く状況が理由だ。だからこそ同時代性を持つ文章をまとめた『チャンネルはいつもアニメ』は貴重なのだ。

 「アニメに評論は成り立つのか、必要とされているのか」、僕の頭をたびたび過る疑問だ。「アニメに評論が必要か」という命題に、藤津はしばしば単純にこう答える。「必要されなければなくなるだけ」。そうは言いながら常に評論を指向する藤津は、アニメ評論を最も信じている。アニメ評論家と自ら名乗る日本で数少ない存在でもある。
 『チャンネルはいつもアニメ』は、ひとつひとつの文章に様々なアニメの世界をみせる。「ロボットアニメ」、「B級映画」、「アニメのつくり手と受け手」・・・。藤津が語る読み解きに、しばしばはっとさせられる。そして、何気なく接しているアニメの世界が、幾つもの意味の重なった文化であることにあらためて気づかせられる。
 僕にはそれがとても心地いい。僕がアニメに評論を求めるのは、それが自分の愛して止まない作品、そして「アニメ」という世界に意味があることを証明するものだからだ。もし、藤津が「評論は求められれば残って行く」と話すなら、自信を持って答えられる。「それは必要とされています」と。そして、現在のアニメ評論の最良のサンプルが「チャンネルはいつもアニメ」に収録された文章なのだ。
[数土直志]

 

 『チャンネルはいつもアニメ-ゼロ年代アニメ時評-』
 (NTT出版)
 価格 2310円(税込)

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