『王様ランキング』が2022年に蘇らせた「漫画映画」という鉱脈【藤津亮太のアニメの門V 第81回】 | アニメ!アニメ!

『王様ランキング』が2022年に蘇らせた「漫画映画」という鉱脈【藤津亮太のアニメの門V 第81回】

それまで絡み合っていた因果の糸がほどけ、あるべき場所へと収まっていく。そして主人公ボッジに待つのは白紙の未来。『王様ランキング』の終幕は、カタルシスと幸福感に満ちたものだった。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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それまで絡み合っていた因果の糸がほどけ、あるべき場所へと収まっていく。そして主人公ボッジに待つのは白紙の未来。『王様ランキング』の終幕は、カタルシスと幸福感に満ちたものだった。

そんな幸福感を感じながらふいに思い浮かんだのは「『王様ランキング』は漫画映画の子孫ではないか」ということだった。

もちろんTVと映画、メディアが異なっているのは百も承知である。ただこの後考察する通り、漫画映画とは非常に曖昧な言葉で、実は「映画」というところにかかっている比重は重くない。たとえば5月から三鷹の森ジブリ美術館で始まる企画展示は、TVアニメ『未来少年コナン』を扱うが、「漫画映画の魅力にせまる!」と惹句がついている。このように、漫画映画とは「ある傾向の作品を指す概念」というふうに考えたほうがわかりやすい。

では「漫画映画」という言葉はどのような作品を指すのかというと、実はこれがはっきりしないのだ。人によってかなり振れ幅があり、「これ」と定義できるようなものではないのだ。2004年開催された展覧会『日本漫画映画の全貌』の図録にはさまざまな識者が寄稿をしているが、それを読んでも各自の想定する「漫画映画」はバラバラで、そこから統一的なイメージを持つのは難しい。

あえてそこから共通点を抽出するのなら、東映動画(現・東映アニメーション)による『長靴をはいた猫』(1969)、『どうぶつ宝島』(1971)を中心にした作品群を指す、とはいえるだろう。そして過去と未来に、この中心からなんらかの係累の線を引ける作品があり、それらもまた「漫画映画」として語られることになる。この「なんらかの係累」が人によってそれぞれ異なる。

『未来少年コナン』の場合は、先述の2作に参加した宮崎駿が監督であり、完成した作品にも地続き感があることが理由となる。寄稿者のひとり五味洋子は、『天空の城ラピュタ』以降の宮崎駿は「アニメによる映画の印象が強く」とした上で、現代に残る「マンガ映画」として『映画クレヨンしんちゃん』シリーズを挙げている。ここでは、自由奔放や荒唐無稽さなどで心を解放してくれるおおらかな作品という、作品を支える精神性に共通点を見出している。(五味は「漫画映画」の中でさらにこうした特徴を持つ作品を「マンガ映画」と呼んで区別しているが、ここでは大きく「漫画映画」の話題として扱う)。

曖昧でありながらどうして「漫画映画」という言葉が21世紀にまで生き延びているのか。それは語り手がそこに「既存の言葉では捉えきれない何か」を見ているからだ。(そういう意味では時が経ち、「漫画映画」という言葉に思い入れを持つ世代が減れば、この言葉が使われなくなっていくであろう)。

では「漫画映画」という言い回しでしか伝えられないニュアンスとはなにか。

たとえば「テレビまんが」とくらべてみよう。これはまず「TV」←→「映画」というメディアの違いがまず大きくある。1960年代の「テレビまんが」が東映の長編と比べると作画枚数も少なく、画面も貧弱で、美的に物足りない存在であった。それでも刺激が強いので人気があったこともあり、TVアニメは「通俗」の色合いが濃い。そこからすると「漫画映画」は、シンプルではあるが映像の力(作画の力を含む)で魅了するだけの「映像の力」は重要な要素であろうということが浮かび上がる。またTVアニメほど「通俗」に傾かない、ある種の「品の良さ」を「漫画映画」の構成要素の一つと考える人もいるだろう。

では「アニメ」という言葉と比較した場合はどうだろうか。アニメという言葉は、1960年代からアニメーションの略語として使われてきたが、1970年代後半に「TVまんが/漫画映画」という“子供向け”というカテゴリーと距離を取るために戦略的にピックアップされた言葉でもある。それまでは「中学生になったら卒業するもの」だった「TVまんが/漫画映画」に対して、ティーンエイジャーのホビーとしての「アニメ」というニュアンスを帯びているのである。それは「アニメ」という言葉に、ヤングアダルト層をターゲットに、性や暴力も扱えるというニュアンスがあるということでもある。もちろん現在「アニメ」という言葉は拡散して、ジャンル全体を指すようになっているが、だからこそ「アニメ」の部分集合として「漫画映画」を使いたくなる、という側面もあるわけだ。

だいぶ回り道をしたが『王様ランキング』がどうして「漫画映画」と呼びうるか、その前提は見えてきたと思う。

本作は十日草輔の同名漫画のアニメ化だ。本作の舞台はボッス王国。この国を建国した巨人族のボッス王は王様ランキングの第7位。ところが第1王子のボッジは、体も小さく、聞くことも喋ることも不自由で非力。周囲からはバカにされていたボッジだが、ボッス王は死去にあたり、王位をボッジに譲ると遺言する。ところが現王妃のヒリングは、ハンデを抱えたボッジに王は無理だと、自分の息子であるダイダを王にする。そこからボッジと、ボッジの友達となったカゲの物語が始まる。

原作の絵柄はとてもシンプルで、アニメも基本的にそれを踏襲はしている。だが、大きく違うのは、原作が比較的平面的な画面構成であるのに対し、アニメは「ある空間の中に登場人物が存在する」という画面づくりをしている。これによりアニメ版は、シンプルで記号的なキャラクターの実在感がさらにましている。さらに光を使った演出も細かく、窓から差し込む光などが効果的に使われており、これも「その空間に登場人物が存在する印象」を強めている。

ここにアクションの魅力が加わる。制作会社WIT STUDIOはアクションを得意とするスタジオであるのは周知の通り。アニメならではの「動き」が加わったことで、エンターテインメント性がさらに加わることになった。大事なのは、アクションが加わっても、もとの絵柄がシンプルでかわいらしいことなども加わって、アクションのリアリティや怪我の痛みは伝わっても、「暴力」という印象が薄いのは、絶妙のバランスといえる。

また物語も魅力的だ。ここでは悪人は基本的に登場しない。悪人に見えるのは我執や弱さによって道を間違えた人間であり、彼らは最終的にその我執から解き放たれ、弱さを自覚して変化することになる。かわいい絵柄ではあるが、そのような「間違え方」とそこからの浄化が、登場人物を立体的に見せている。一筋縄ではない人間の姿を見せつつも、この残酷すぎず、人間を肯定している明るさが、本作の魅力なのだ。

アニメではさらに脚本で回想に入るタイミングを変えることで、各話ごとのエピソードにメリハリをもたせたり、感情を伝えるちょっとした演技を加えたりすることで、登場人物の持っているドラマがより伝わるように工夫されている。

また本作で相手を思うことは結婚と直結しており、性という主題は扱っていないことで、絵柄と相まって「児童文学」の趣が強いところも本作のポイントだ。

このように『王様ランキング』の魅力を挙げていくと「シンプルなキャラクターデザイン」「キャラクターを(そして視聴者を)解放していく作劇」「魅力的なアクション」と「漫画映画」と共通する部分が多いことが見えてくる。

先述の図録でアニメ・特撮研究家の氷川竜介は東映動画の長編でやはり漫画映画の代表として挙げられる『わんぱく王子の大蛇退治』を取り上げた上で、以下のように語っている。

「この『間口は浅く広く、奥は深く』という作法こそが、日本版漫画映画の特質なのかもしれない。キャラの丸みとかわいさ、抽象性につい心を許すと、深い異世界へと連れられて、ドラマを演じる者たちにも共感を持たされて、気がつくと興奮と涙。清冽なアニメーションとしての個々のモーションの快感と、情動(エモーション)の同期があって、初めて感動がもたらされる」。

この賛辞はそのまま『王様ランキング』にもあてはまるように読めないだろうか。

そして氷川は次のように続ける。

「そういう観点で考えてみると、『これぞ漫画映画』という実感は、個々の作品に断片があるだけで、この方向を極めきった作品はかなり希少なのかもしれない。逆に言えば、そこにまだ彫りつくされていない膨大なる鉱脈が眠っていることになるのだろう。そこを目指すアニメーション作家はいないのだろうか」。

『王様ランクング』は、原作漫画のヒットという後押しもあって企画が成立し、結果として「漫画映画」と呼びうる作品として出来上がった。『王様ランキング』が2022年に蘇らせた「漫画映画」という鉱脈。配信の時代になり企画の幅が広がっている状況を鑑みると、改めてその“鉱脈”に注目してもよい時期のようにも思う。

《藤津亮太》

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