『明日ちゃんのセーラー服』が魅せる「超現実」―美を追求する耽美な姿勢の原点とは【藤津亮太のアニメの門V 第79回】 | アニメ!アニメ!

『明日ちゃんのセーラー服』が魅せる「超現実」―美を追求する耽美な姿勢の原点とは【藤津亮太のアニメの門V 第79回】

『明日ちゃんのセーラー服』の「耽美」な姿勢はどこから来るのか。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『明日ちゃんのセーラー服』は「キャラクターの表現そのものが目的」といってもいい作品だ。そもそも原作が主人公の明日ちゃんを中心に、登場人物の一挙手一投足を注視するところに力点があり、さらに“決め”となるところはカラーにもなる。アニメはその原作の狙いを正面から受けてたった内容になっている。「女子中学生の存在感を魅力的に描く」という一点を、錐のように穿とうという本作の姿勢は、美的なものを追求するという言葉通りの意味で「耽美的」ということができる。この「耽美」な姿勢はどこからやってきたのか。

『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社、土居伸彰)は、長編を制作するにあたってディズニーが行った“変革”について次のように記している。

「それは簡単に言えば、観客に対して、自分が『アニメーションを観ている』ことを忘れさせること、つまり、初期カートゥーンのように、グラフィック上の創造物でしかないキャラクターたちの出来事を観ているとは思わせないということであった。そのためには、アニメーションをこの世界の法則に近づけていくこと――作りものであることを意識できないぐらいに――が重要になってくる。グラフィックとしての自意識は必要ではなく、むしろ、忘れされていくことが大事になる」

しかし、それは同時に、現実をフレームの中に引き写すことを意味しない。

「長編へと向かうディズニーが採用した原理の核――実際にリアルかどうかではなく、リアルであるように“感じられるかどうか”(引用者注:実際には傍点)に重点を置くこと――、それを意味するのに、この本の中では『信じうる』という言葉が用いられている」(同書)。

「信じうる」は、believableの訳語である。

「可塑性を用いることで、ディズニーはアニメーションを反現実的なものではなく、過剰なまでに現実に従わせることで超(ハイパー)現実的なものにしようとする」(同書)

可塑性というのは、アニメーションのキャラクターを、そのアクションに応じて伸び縮みさせるストレッチ・アンド・スクウォッシュのことを指している。いかにもアニメーションでしか起き得ない現象であるストレッチ・アンド・スクウォッシュだが、人間の体が持つ柔軟性のひとつと解釈され、そのように描かれると、グラフィックなものとしてではなく、逆に人間の存在感を強化するものとして使われる。そこに立ち現れるのは、グラフィックな「反現実」でも、現実そのものでもなく、「超現実」なのだというわけだ。

このディズニーの姿勢はアニメーション表現の大きな潮流となり、1970年代に入り、高畑勲監督が『アルプスの少女ハイジ』などを手掛ける過程を経て、次のように変奏される。

「(アニメーションのリアリズムのひとつは)<よく知っていることをクッキリとした形に定着して、再印象させる力>です。」

「たとえば、落語。うまい演者は、人物の表現や仕草を、極めてありありとしたリアリティでもって表現してくれる。そんなありふれたことは誰だって経験しているにもかかわらず、いや、経験し感じたことがあるからこそ、そこには新鮮な感動が伴いますね。」

「アニメーションは優れた演者による落語の表現と同じ力も本来持っている。よく知っていると思い込んで。関心も払わなければ、その魅力に気づきもせずに過ごしていることがらを、ああ、人はこうして生きているんだなァ、という感動とともに再印象させる力があるはずなのです。

これは、『火垂るの墓』制作時の高畑の言葉(新潮社、とんぼの本『アニメの世界』)だ。ここでは、ディズニーが変革したことの延長線上で、「日常を超現実として表現しること」がアニメーションの重要な機能として語られている。

このように登場人物を超現実化することでビリーバビリティを付加することで、ディズニーは「長編にふさわしい長い物語」を語りうるようになった。高畑は、その「再印象」の積み重ねで、キャラクターが生きる世界そのものを観客に再発見させようと試みた。

現代の日本で、メジャーなチャネルで流通するアニメは、多かれ少なかれディズニーや高畑が切り開いた表現のフィールドの上で制作されている。『明日ちゃんのセーラー服』もそうした潮流の果てにある一作だ。

だが『明日ちゃんのセーラー服』の特徴は、先述のように、登場人物のビリーバビリティが主眼というところにある。語られるストーリーや世界というのは、登場人物たちを成立させるためのミニマムな内容に抑えられているという点にある。

第1話は、明日小路が、母が作ってくれた憧れのセーラー服に袖を通し、伝統ある蠟梅学園中等部に入学するというエピソード。実は蠟梅学園は過去にセーラー服を制服にしていたが、今はブレザーだったという顛末があるものの、第1話の山場はそこではない。

第1話の山場のひとつは当然ながら、彼女がセーラー服を着るシーンだ。

上着を着た後の長い髪を外へ出す仕草。やわらかいリボンを結ぶ仕草。そして黒のソックスを履く様子。原作にもそのとおりに描かれているが、「動き」があることで、この明日の厳かな儀式が、「超現実」的なものとして迫ってくる。これは第2話の給食のシーンで、明日がアイドルの真似をして唇を挟むシーンにもいえる。下唇を左右から指ではさみ、それをはなすと唇がぷるんとゆれる。ここは色と動きがあるアニメの効果が存分に、現れている。本当はあそこまで唇がゆれることはないのだが、その動きにビリーバビリティがあるからやはり、ここにも「超現実」がたち現れることになる。

そもそも本作は、これらのシーンだけでなく、全編をとおして丁寧な演技と、肌をきれいに見せる繊細な撮影が徹底しており、それだけでもかなりのインパクトがある。また原作のポイントポイントで挿入されるカラーのコマは、他カットよりも特効などを加えて、ひときわ質感や光感の解像度を上げた映像で表現されている。そしてその上に先述のような表現が加わっているのである。

また原作では下着姿や入浴中の姿も扇情的にはならない範囲でナチュラルに出てくるが、アニメではそれを原作以上に極力見せないように徹底している。第2話で明日が、ブリッジから後方回転を披露するところでもアニメでは一切スカートの中を見せていない。そこから、直接的なものを見せるのではなく、明日の身体に存在感がやどることから生まれる健康的なエロティシズムだけで十分魅力的なものになると、考えて演出されていることがうかがえる。それは青山裕企の写真集『スクールガール・コンプレックス』に通じるものがある視線のあり方だ。

このように徹底して理想化された少女の身体を描く作品を観て思うのは、これを男性に置き換えることもできるのではないか、ということだ。これだけ男性アイドルアニメやスポーツアニメがあり、女性ファンが楽しんでいることを考えると、男性なりの身体の魅力を表現することを第一に考える作品があってもおかしくない。

『明日ちゃんのセーラー服』は、アニメが「超現実」を表現しうるという歴史の果てに現れた極点の存在だ。だがそれはあまりにピンポイントであるがために、進化の袋小路かもしれない、という危うさも感じさせる。もしこのさきに袋小路を突破するがあるのなら、それはこの耽美的な姿勢をどこにどう拡張していくか、という方向なのではないか。それは男性であってもいいし、あるいはペットであってもいい。そんなことを『明日ちゃんのセーラー服』を見ながら考えた。

《藤津亮太》

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