「映画大好きポンポさん」 大事なのは“自分がそこにいる理由”を見つけること【藤津亮太のアニメの門V 第71回】 | アニメ!アニメ!

「映画大好きポンポさん」 大事なのは“自分がそこにいる理由”を見つけること【藤津亮太のアニメの門V 第71回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第71回目は、劇場アニメ『映画大好きポンポさん』を取り上げ、“編集”をキーワードに作品を読み解く。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『映画大好きポンポさん』は、設定的な意味でいえば決して“リアル”な物語ではない。
ハリウッドならぬ“ニャリウッド”における映画制作の現場を舞台にした本作だが、そこで描かれるのはあくまでも「幻想としての映画制作」である。

そもそもタイトルロールであるポンポさん(ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット)は、幼い少女に見えるが名プロデューサーで脚本も達者という設定からして“リアル”ではない。
でも“マンガのよさ”というのは、そういう非現実的な設定だからこそ、端的に主題を語りうる直截さにある。
だから物語はシンプルだ。ポンポさんの助手であるジーンは、ある作品の予告編の編集で腕を認められ、ポンポさんが脚本を書いた次回作『MEISTER』の監督に抜擢される。
撮影もなんとか終えていよいよ編集に立ち向かうジーンだったが、そここそが彼にとって真の“戦場”だった。

映画制作を舞台にした作品は、集団作業であることのおもしろさや難しさを扱うことが多い。
しかし本作の主題はそこにはない。本作のテーマは集団作業である撮影が終わった後、ジーンが孤独に編集を行うシーンに凝縮されている。
原作では決してボリュームを割いていない編集の過程をクライマックスに持ってきたということは、当然ながらそれがこの映画にどうしても必要な要素だったということでもある。

通常編集は編集マンと監督の二人三脚で行われることが多いが、先述の通り本作は“リアル”ではないので、編集はジーンひとりの作業として描かれる。そしてその“ウソ”によって、本作の主題はクリアに示されることになった。

『MEISTER』の編集シーンはまず、映画における編集の大事さを説明する役割を担っている。演出家はどういう意図でカット(この場合“実写映画”が題材だからショットというべきか)を並べていくのか。

まず台本の展開どおりに、演奏会から終演後の会話のシーンへと棒つなぎにしてみるジーン。
そしてそれを説明的だと捨て、今度は演奏シーンからそのまま、終演後に怒っている指揮者ダルベールの引いた画面へと繋いでみる。
そして、しばらく引いた画面のまま怒るダルベールの様子を見せた後、いきなりアップでダルベールの表情を見せる。

ジーンはここで、本作はこういうスタイルで編集していこうと決める。ここで編集とは、映像の語り口を固めていく過程であること、語り口は観客の感情と深く結びついていることが示される。
観客はここへきて本作がさまざまなパターンのトランジション(カットとカットをつなぐ時の効果)を使っていたことを思い出す。
トランジションはその効果によって、映画が「ひとつながりの映像」と「ひとつながりの映像」の連続であることを強調する。
本作は序盤から、本作の物語が「編集」へと収斂するのを予告するかのように、多彩なトランジションが用いられていたのである。

ジーンは編集作業を通じて『MEISTER』とはどのような映画であるのか、その本質を探っていく。
しかしやがて手が止まってしまう。どれも大事なシーンに思えるが、切らないと間延びした映画になってしまうというジレンマ。迷ったジーンは、やはり名プロデューサーとして知られたポンポの祖父、ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ペーターゼンと言葉を交わす。

ダヴィドヴィッチは、『MEISTER』のプロデューサーであるポンポが脚本を兼ねていることに触れ、ジーンの迷いの根底に「ポンポに正解を聞いては自分に存在意義がない」という意識があることを言い当てる。
そこでダヴィッドは改めてジーンに問う。ジーンが映画を好きになったのは、そこに「自分」を見たからではないか。そして「君の映画の中に君はいるかね」という。

原作ではジーンは編集に迷った時、コルベット監督の言葉を思い出している。そこではコルベット監督は「その映画を一番見てもらいたい誰かのために作ればいいんだ」と語っている。
その後のコマ運びなどから、おそらくジーンはポンポさんのことを考えて編集した、と読解できる流れになっている。

映画ではここを大きく変えた。原作がポンポさんの脚本による映画をポンポさんに見せるために作るという展開であるのに対し、映画はポンポさんの脚本を自分の物語(作品)として読解していくことで映画を完成させる、という展開になっているのである。

この読解の結果、ジーンは追加撮影が必要だと結論する。それは「うまく(そつなく)書かれたポンポさん」の脚本に“魂”を入れるために必要だとジーンが考えたことだった。
だが一度解散したキャスト・クルーを集めるのはとても手間のかかることだ。もちろん予算も追加で必要になる。ジーンはポンポさんに土下座をしてそれを頼み込む。
これはジーンのエゴということはできる。だがこのエゴは、ジーンにとっては自分が作品の“奴隷”となった結果のエゴなのである。

ここで思い出すのは、高畑勲監督が言ったという「映画作りとは坂を転げ落ちることだ」という言葉だ。
『仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場』(岩波新書、鈴木敏夫)によると、高畑監督は『火垂るの墓』の時に、シナリオを坂にたとえ、プロデューサーもスタッフその坂を転がり落ちていくことが映画作りだと主張したのだという。

シナリオというのは具体的なシナリオのことを指すというより「この映画を作ろう」という合意のことと考えていいだろう。ひとたび「この映画を作ろう」となった以上、映画というものが求める完成に向かって転げ落ちるしかない。
ジーンにとってこの追加撮影は、「自らがひたすら転げ落ちていく」中で避けられないことで、主張しているのはジーンかもしれないが、そうさせているのは映画そのものなのである。

ここで物語には、追加撮影のための予算を銀行が出資してくれるかどうか、という撮影スタジオの外の要素が加わる。そのニャリウッド銀行には、ジーンの同級生アランが務めていた。
学生時代はクラスの中心にいるような陽気な正確だったアラン。ジーンとは一瞬の接点しかなかったが、『MEISTER』のロケで撮影中のジーンと再会する。
その時アランは、銀行の仕事がなかなかうまくいっておらず、退職も考えるほどだった。

このアランが『MEISTER』の出資の可否を巡って大きな役割を果たすことになる。
このアランの働きもまた、ダヴィドヴィッチの「君の映画(仕事)の中に君はいるかね」という問いかけの延長線上にあると考えればわかりやすい。
アランは、この出資の件を引き受けることで、銀行の仕事の中に“自分”を見つけていく。映画オリジナルのアランというキャラクターを登場させたことで、本作は“ものづくり”を巡る物語というだけでなく、より普遍的な「働くこととはどういうことか」という物語の色合いを帯びることになった。

「そこに君はいるのか」という問いかけは「なぜ君はそこにいるのか」という問いかけでもある。
「偶然そこにいた」ということに自分で意味を見つけることができるかどうか。「意味」を見つけることで、その人は「状況の奴隷」から脱することができる。

もちろん映画でジーンもアランもそれぞれ目標を達成するが、それはフィクションとしての“落としどころ”に過ぎない。大事なのは「自分がそこにいる理由」をみつけて生きることなのである。
『映画大好きポンポさん』が“マンガだから”こそ直截さで描いたのは、そういう普遍性なのだ。 

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』、『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』などがある。ある。最新著書は『アニメと戦争』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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