「幸福路のチー」アニメを使って“自画像”を描く意義とその可能性【藤津亮太のアニメの門V 第53回】 | アニメ!アニメ!

「幸福路のチー」アニメを使って“自画像”を描く意義とその可能性【藤津亮太のアニメの門V 第53回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第53回目は、台湾の長編アニメーション映画『幸福路のチー』を題材に、「アニメと自画像」の関係性を考察する。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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ある作品を見た時に「この作品はその国の自画像ではないか」と感じることがある。
3年ほど前からそこが気になって、しばしば考えるようになった。単にその国の社会風俗が取り上げられている作品というより、「今、私/私たちがこのように生きている理由」に触れている作品といえばいいだろうか。

例えば日本のアニメで探すならば、農村に生まれたタヌキ(≒人間)たちが都市住民になっていく『平成狸合戦ぽんぽこ』は間違いなく戦後日本の自画像だといえるだろう。
また『マイマイ新子と千年の魔法』も、1000年前の防府と昭和30年の防府を重ね合わせて描くことで、その土地に暮らし続ける「私たちの物語」を浮かび上がらせていた。

国外に目を転じると、今年公開された『エセルとアーネスト ふたりの物語』は、ロンドンを舞台に、名もない夫婦の出会いと死去までの40年余りを扱い、第二次世界大戦の時期を含む庶民(労働者階級)の歴史をリアリスティックに描いていた。
ブラジルの『父を探して』も、非常に抽象化されたキャラクターながら、そこには現在につながるブラジル社会の変化がちゃんと織り込まれていた。

一方、2004年に公開された香港の『マクダル パイナップルパン王子』は擬人化されたブタが主人公で、リアリズムからはほど遠いが、変化していく街の風景や童話めいた父や母の思い出の中に、「今、香港で生きている私」の心象が浮かび上がるような作品だった。

たぶん探せばもっといろいろな「自画像」作品があるだろう。当然ながら人によっても「自画像」と感じられる作品は変わるかも知れない。
思えばドリームワークス制作の『スピリット』は、西部開拓史と馬を扱っていたわけで、「自画像になりそうでなりきれなかった」作品だったように思う。

いずれにせよ「自画像」というのは、アニメの主題として非常に可能性を秘めており、今、世界で起きている長編アニメーションの隆盛は「アニメを使って自分たちの自画像を描こうとする試み」とも深いところで繋がっているのではないだろうか。
『幸福路のチー』は、そうした点でまさに「台湾の自画像」だった。

主人公のチーは、1975年生まれの女性、台湾の田舎町の出身だが、現在はアメリカで暮らしている。
ある日、彼女のところに祖母の訃報が届き、チーは故郷の「幸福路」へと帰ることになる。すっかり変わってしまった風景を目の当たりにしながら、チーは自分の子供時代の思い出を振り返り、自分自身の人生や家族の意味をいろいろと振り返ることになる。

象徴的なのは、タイトルが出た後のチーのモノローグだ。
子供時代の夢を見て目を覚ましたチーは「最近目が覚めると、自分がどこにいるのか 誰なのか 忘れている」とつぶやくのである。後に描かれるが、チーはこの時、アメリカで結婚し、しかもその結婚がうまくいっていないという状況だ。

異国でアイデンティティを見失いかけているチー。『おもひでぽろぽろ』では27歳のタエ子は、思春期前半の自分を思い出すようになった自分について「あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節が再びめぐって来たからなのだろうか また私に蛹の季節が来たからだろうか」と語るが、チーもまたこの時、自分とは何者かを確かめるための、サナギの季節を迎えていたのだろう。

こうして映画は現在と回想を行き来しながら進む。回想のチーは、はじめて小学校に通った日から始まり、高校生、大学生と次第に年を重ねていく。
チーが大人になっていく過程と絡めながら、学生運動の高まりや、1994年の陳水扁の台北市市長当選、1999年の台湾大地震(921地震)といった台湾現代史の出来事が語られていくのだ。

こうしてチーを語ることと、台湾の歴史が絡み合って「(台湾の)私たちの自画像」が形作られているのである。そして自らの道を振り返ることは、そのままチーの新しいアイデンティティ探しにもなっている。

この映画のポイントは、チーがこうしたサナギの季節を迎える時点で36歳になっているところだ。
つまりここでの悩みは青年期の悩みというより、アメリカと台湾という形で示された、都会/田舎、そして西洋/東洋の間で起こる葛藤なのである。
この葛藤がはっきり示されるのが、高いところから落ちたチーが見る幻想だ。

そこでチーは男の子と女の子の2人の母になっている。そこにアメリカ人の父が現れ、息子のほうをアメリカ人として連れ去ってしまうのだ。
その時、娘は台湾人としてチーの側にいる。これは夫婦仲の危機を描いているようで、チーのアイデンティティがアメリカと台湾の間で引き裂かれていることを表している(その少し前に、子供から「アメリカ人」と言われるシーンがある)。

だからチーは続けて「私の家はどこ」と嘆き、死んでしまった祖母に助けを求める。そこで祖母はチーに告げる。「お前が何を信じるかでどんな人間かが決まる」。
こうしてチーは、サナギの季節を終え、自分が何を信じて生きていくかを決める。
その選択は、東アジア的な家族主義なものだ。おそらく今の日本で同種のテーマを扱ったら結論は異なったものになったのではないだろうか。
でもだからこそ、この結論を含めて、本作は「台湾の自画像」といえる作品として完成しているのだ。

そして我々は、そこに「似ているところ」(台湾の子供たちが『キャンディ・キャンディ』や『科学忍者隊ガッチャマン』を楽しんでいるところも含め)と「異なるところ」を見つけ、世界の多様性の一端に映画を通じて触れることができるのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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