スタジオぴえろ創設者・布川郁司が語る、日本のアニメの強みと業界の課題【インタビュー】 | アニメ!アニメ!

スタジオぴえろ創設者・布川郁司が語る、日本のアニメの強みと業界の課題【インタビュー】

アニメサイト連合企画「世界が注目するアニメ制作スタジオが切り開く未来」の第16弾は、スタジオぴえろ取締役最高顧問・布川郁司にアニメ業界の過去現在と、今後業界が目指すべき方向についてうかがった。

インタビュー スタッフ
スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー
スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー 全 16 枚 拡大写真
アニメサイト連合企画
「世界が注目するアニメ制作スタジオが切り開く未来」

Vol.16 スタジオぴえろ

世界からの注目が今まで以上に高まっている日本アニメ。実際に制作しているアニメスタジオに、制作へ懸ける思いやアニメ制作の裏話を含めたインタビューを敢行しました。アニメ情報サイト「アニメ!アニメ!」、Facebook2,000万人登録「Tokyo Otaku Mode」、中国語圏大手の「Bahamut」など、世界中のアニメニュースサイトが連携した大型企画になります。
全インタビューはこちらからご覧ください。


スタジオぴえろ代表作:『ニルスの不思議な旅』『うる星やつら』『魔法の天使クリィーミーマミ』『幽☆遊☆白書』『NARUTO』『BLEACH』『東京喰種』『おそ松さん』『ブラッククローバー』

スタジオぴえろの前身は、1977年にアニメーター・演出家の布川郁司が発足した、演出家グループ「ぴえろ」だ。

同グループはTVアニメ『みつばちマーヤの冒険』などTVアニメシリーズを手がけた後、『ニルスのふしぎな旅』を制作するために、1979年にアニメ制作スタジオとして「株式会社スタジオぴえろ」(以下、ぴえろ)を設立した。

1981年、『うる星やつら』(キティ・フィルム製作)の制作を手がけたことで注目を集めた後、1983年に『魔法の天使クリィミーマミ』を筆頭とするオリジナルシリーズ「ぴえろ魔法少女シリーズ」では出資も行う製作会社へと転換。
『きまぐれオレンジ☆ロード』や『幽☆遊☆白書』、『ヒカルの碁』、『NARUTO-ナルト疾風伝-』など、人気コミックスを原作としたTVアニメーション制作を数多く手がけ、MDや海外進出でも成果を上げてきた。

日本のアニメ黄金期ともいえる1980~90年代において、企画・制作の立場でスタジオぴえろを牽引してきた布川氏。
現在は、代表権を持たない取締役最高顧問としてスタジオに在籍する一方で、アニメプロデューサー・演出家の育成を目的としたNUNOANI塾を設立し、塾長として日本のアニメーション業界の未来を担う人材の育成に努めている。

40年間、日本のアニメーション制作現場を見続けてきた布川が、スタジオぴえろで得たものは何か。そして、これから日本のアニメ業界が目指すべき目標は何かを、布川の個人的見解として率直に語ってもらった。
[取材・構成=中村美奈子、撮影=小原聡太]

(C)岸本斉史 スコット/集英社・テレビ東京・ぴえろ
『NARUTO』『BORUTO』シリーズは、海外にも熱狂的ファンが多数。

スタジオぴえろ取材場所であるスタジオぴえろは、三鷹市の閑静な住宅街に位置。
スタジオぴえろスタジオのモチーフであるぴえろのオブジェがお出迎え。
スタジオぴえろエントランスには代表作のポスターが並ぶ。
スタジオぴえろ『ファイナルファンタジー』シリーズなどで知られる天野喜孝氏、『魔法の天使クリィミーマミ』キャラクターデザイナーの高田明美氏が描くピエロ。
スタジオぴえろインタビュー場所となった応接間には、自社作品のパッケージやグッズがズラリ

■日本のアニメの魅力は、設定・ストーリー・キャラクター


スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー布川郁司氏
――布川さんが、アニメーターになった1960年代当時のアニメ業界は、どんな様子でしたか?

布川:朝ドラ『なつぞら』でも描かれているけれど、東映動画が1956年、虫プロダクションが1961年、竜の子プロダクション(以下、タツノコプロ)が1962年に設立されているから、僕がアニメーションの世界に入った時期は、ほぼ創世記に近かったんです。
僕は、グラフィックデザイナーになりたくて山形から上京して会社勤めをしていましたが、会社を辞めた後に「絵が好きな人募集」という新聞広告を見て、朋映プロに入りました。

「アニメーター」という言葉すら定着していない時期で、何をするのかも知りませんでしたが、映画が好きで映像に関わる仕事をしたかったこともあって、入ったときは楽しかった。
彩色や動画、原画など、ひとつひとつの仕事が楽しかったし、人間関係にも恵まれて、楽しく仕事をしていた記憶があります。当時は、ひとつのプロダクションで音響以外のすべての行程を手がけていたから、アニメーション制作の工程を流れで全部見て覚えました。

――現在、日本で制作されたアニメーション作品は、海外でも“ANIME”と通じるほどですが、1970年代にはすでに日本のアニメーションが海外に輸出されていたそうですね。

布川:そうなんです。日本のTVの創世記は、アニメと同じく1960年代。当時は全部番組を作って時間を埋めるのは大変だったので、海外のTV局からたくさんの番組を買って、放送していました。
その流れで、逆に海外に日本のアニメもたくさん売られていたんです。

理由は、日本のアニメが安かったから。「何本まとめておいくら」というたたき売りみたいな感じで。だから、海外で日本アニメを見て育った人は、実はもう第3世代くらいになっているんです。

――歴史的には、海外も日本もほとんど変わらないんですね。布川さんが関わった作品で、海外の人にも人気の作品は何ですか?

布川:原画を描いた演出時代に演出した『みつばちマーヤの冒険』(1975年)。実は僕も海外に行って初めて知りましたが、それこそ日本の『サザエさん』に並ぶくらい、みんな知っているんですよ。
原作を書いたのがドイツ人作家さんということもあって、北ヨーロッパで開催された日本アニメフェスティバルに呼ばれて、僕が主人公のマーヤを描くとみんな感動して、神様みたいな扱いを受けました。

スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー
短いフィルムも含めると、世界で放送されている日本の作品は、2000~3000本で、実は日本よりも多い。『みつばちマーヤの冒険』も、44カ国語に翻訳されて放送されているし、高畑勲さんと宮崎駿さんの『アルプスの少女ハイジ』(1974年/ズイヨー映像制作)や、『キャンディキャンディ』(1976年/東映動画制作)を見て育った人も多い。

フランスの元サッカー選手、ジネディーヌ・ジダンが、『キャプテン翼』(1983年/土田プロダクション制作)を見てサッカー選手に憧れた逸話もあるし、日本のアニメーションの影響力は本当に大きいんですよ。
最近では特にインターネットの普及で、思いがけないところに日本のアニメファンがいます。

――海外で、日本のアニメーションに人気が出る理由はなんですか?

布川:スタジオジブリの作品を別にすれば、今世界的に評価を受けている“ANIME”の大部分は、30分枠のTVアニメーションです。正味二十数分で連続性のあるアニメを観せるのはけっこう大変で、フルアニメーションでもないし、はっきり言って動きのクオリティもそれほど高くない。
では何で持たせているかというと、「設定」「ストーリー」「キャラクター」。ドラマを通してその魅力を表現するために、制作側のいろんな知恵が入っているからこそ、大人が観ても十分鑑賞に耐えうるものとして評価されていると思います。

幼児向けのアニメは、世界各国でいろんな番組が作られていますが、海外では、マンガやアニメは子どものものという認識のため、ティーン向けのアニメはあまりない。そこに、ドラマ性の高い日本のアニメーションがフィットしたんだと思います。
中高生は影響を受けやすい世代なので、そこから日本のマンガやアニメが浸透していきました。

――『NARUTO-ナルト-』は海外でも人気がありますが、「忍者」など日本文化的な要素がある作品の方がヒットするんでしょうか?

布川:違います。ストーリーのおもしろさが第一ですね。

スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー
僕は、日本のアニメが世界で評価を受けたのは、あくまで偶然だと思うんです。
日本で評価を得るために作った番組が、たまたま海外でヒットしただけで、別に業界が仕かけた動きではないですから。

例えば、ぴえろが制作した『太陽の子エステバン』(1982年)は、国内の成果は芳しくありませんでしたが、フランスでは知らない人がいないくらい人気が出ました。
スペインでは『天才バカボン』(1972年/Aプロダクション制作)、最近はインドで『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1996年/スタジオぎゃろっぷ制作)が流行しているというから、本当にわからない(笑)。

スタジオぴえろ・布川郁司インタビュー
ただ、スペイン語のバカボンのパパは、声がおもしろくて。だから、ローカライズがうまいという要素は、重要かもしれません。


→次のページ:アニメをビジネスとして成立させる仕組みづくりが急務
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 続きを読む

《中村美奈子》

【注目の記事】[PR]
 

この記事の写真

/

特集