アニメーションの定義としては「フレーム・バイ・フレーム」、つまり1コマずつ動きを創出していく表現がアニメーションである、という考え方が、オーソドックスでオーセンティックなものとして存在する。ここで重要なのは「創出」の部分で、歴史的に実写映像を“なぞる”ロトスコープが一段落ちるものとして扱われてきたのは、この「創出」の部分の評価をめぐってのことだ。(ただしこの評価はこの十数年で変化しつつあると感じる)。
『ニッツ・アイランド』は、マシニマと呼ばれる「ゲーム映像を編集した動画作品」というジャンルに属する。「フレーム・バイ・フレーム」の点から考えると、事前にプリセットされたアニメーションを、プレイヤーの操作に応じて適宜呼び出していることになるので、「創出」性はかなり低く、ちょうどアニメーションと非アニメーションの境界領域にあるということになる。新潟国際アニメーション映画祭で『ニッツ・アイランド』が上映されたときも、「新しい制作方法」という冠で紹介され、説明文には「これは新たなアニメーション映画なのか、それともまったく別のものなのか。アニメーション映画祭の場にて、それを問う。」と記されている。
『ニッツ・アイランド』がアニメーションか否かを考えたとき、「動きの創出」で考えるという筋道は、オーソドックスな考え方ではある。あとはその境界領域のどこまでをアニメーションとして許容するかどうか、という個人あるいは映画祭などのレギュレーションの問題になってくる。
トークの前には、そんなことを考えていたのだが、トークの数日前に濱口竜介監督の『他なる映画と 1』を読んでいたら、興味深い記述にぶつかった。
実写映画では作品を構成するひとつながりの映像を「ショット」と呼ぶが、アニメ業界は慣習的にそのひとつながりの映像を「カット」と呼ぶ。これはアニメ業界ではカメラを振ることが全部パンと呼んでしまうような――カメラを上下に振るのはティルトアップ/ティルトダウンだがアニメ業界ではパンナ(ア)ップ/パンダウンになる――慣習の問題と、僕は考えていた。
ところが濱口監督は同書に収録された「他なる映画と 第一回 映画と、ショットについて」の中で、ショットとカットの違いについて非常にクリアに説明をしていた。
カメラを回して撮影することを「シュート(Shoot)」と呼ぶ。これの過去分詞「ショット(Shot)」が名詞化して「撮られたもの」という意味を持つようになっている。
では「カット(Cut)」はどうか。カットは編集をする行為――いわゆる“ハサミを入れる”こと――だ。だから、その過去分詞「カット(Cut)」は、「切られたもの」を意味している。
つまり撮影における最小単位が「ショット」であり、編集時とそれによって完成した映画の最小単位が「カット」というのである。
このように考えたとき、アニメーションの伝統的な制作方法が、絵コンテに基づくものであり、絵コンテの段階で「映像の並び」という実写なら撮影後に編集でツメていくものを、かなりの精度で確定しているということが思い出される。つまりアニメにおける絵コンテとは「カット」の連なり(連続性)を構想する過程であり、決して「ショット」を構想するものではない。これはしばしば絵コンテの段階で「カット頭」と「カット尻」がどんな絵であるべきか、まで描いてあることとからも明らかだ。逆にいうと、実写映画で監督が撮影前に描く絵コンテは、シュートのプランであって「カット」のための構想ではない。
そうすると、オンラインゲーム内で撮影を行った『ニッツ・アイランド』の場合、「シュート」ありきの制作方法であり、決して「カット」の構想が先行していたわけではない。その点で、『ニッツ・アイランド』は被写体が“たまたま3DCGキャラクターであった”実写映画と捉えるのが自然ということになる。
このアニメにおいて「カット」の構想が先行すること、は20年以上前に押井守監督が発言していた「(デジタルの普及により)すべての映画はアニメになる」というテーゼとも繋がる。
押井監督の発言を、本連載の趣旨にあわせて言い直すとこうなる。
最終画面をコンピューターモニター上で決めていくようになったとき、撮影(シュート)ですべてが決まるという映画作りは終わる。その代わり撮影では、監督が求める「カット」を構成する素材を得るための行為となる。そうなったとき、各部署が制作した素材を最終的にコンポジットして完成画面を作り上げるという点で、実写もアニメも同じ地平に立つことになる。実際この予言通り、CGと生身の役者が共存する映画などは、制作工程はアニメーション――カットの構想が先行する――に極めて接近することになった。