映画「THE FIRST SLAM DUNK」花道、リョータたち湘北の“今”が動き出す―【藤津亮太のアニメの門V 第90回】 | アニメ!アニメ!

映画「THE FIRST SLAM DUNK」花道、リョータたち湘北の“今”が動き出す―【藤津亮太のアニメの門V 第90回】

『THE FIRST SLAM DUNK』は「時間」をめぐる映画だった。そのような映画として出来上がったのは、『SLAM DUNK』という作品の特殊な立ち位置の上に成り立っているからだ。

連載 藤津亮太のアニメの門V
注目記事
  
   全 1 枚 拡大写真

『THE FIRST SLAM DUNK』は「時間」をめぐる映画だった。そのような映画として出来上がったのは、『SLAM DUNK』という作品の特殊な立ち位置の上に成り立っているからだ。

■リアルに描かれた「試合」と「時間」


『THE FIRST SLAM DUNK』は、過去にアニメ化されたことのない、原作のクライマックスであるインターハイ第二回戦をメインに据えている。この試合の展開を縦軸の一つにし、合間に湘北メンバーの回想がインサートされていくというのが本作の基本的構成だ。

いうまでもなく本作が最も注力したのは湘北対山王戦の描写である。バスケットボールの試合を、あたかも現実の試合を見ているかのごとく描き出すこと。近年、アニメでは「そのスポーツのプレイの魅力を、ちゃんと映像として描き出す」という方向が当たり前になってきているが、本作では、モーションキャプチャーを使った3DCGと手描きの修正の融合という力技で、それを達成しようと試み、それに成功していた。

もちろんこの正面突破作戦は、題材がバスケットボール(登場人物が敵味方合わせて10人でモデルの数も限られているし、室内スポーツなのでライティングの大きな変化も考慮しなくてよい)であったこともプラスに働いただろう。また、なにより本編の大半が試合シーンであるからこそ、そこに徹底的にリソースをつぎ込むこともできたことも大きいはずだ。ほかの題材・ほかの作品では、こういうことはなかなか難しいだろう。そういう意味でも、本作はほかに例がなく、なかなかこのスタイルをマネできる作品ではないということがいえる。

本作は、こうしてリアリティたっぷりに描かれた「バスケットボールの試合の時間」が根底に置かれている。スコアボードの時計が、ゼロに向かって減っていくという、その時間経過が映画全体を支配しているのである。
そしてそこに、登場人物たちの回想の時間が織り込まれる。試合中に登場人物の回想が入ってくるのは、スポーツ漫画ではごく当たり前のことではある。しかし、それがリアリティたっぷりに描かれたバスケットボールの試合の合間となると、また印象が異なってくる。

今回、映像化されたバスケットボールの試合は、登場人物たちが常に動き続けており、試合の一瞬一瞬を連続的に切り取った原作漫画やTVアニメとは、印象が根本的に違う。止まることのないキャラクターの運動は、そのまま進み続ける時間を意識させ、過去のエピソードとのコントラストがくっきりと際立った。漫画やTVアニメの、主観的に引き伸ばされ、限りなく静止に近づいた試合の時間の中に回想が入り込む形ではなく、流れ続ける試合の時間の上に、また別の時間の流れが重ねられているのが、本作の語り口なのである。

試合の時間の上に重ねられる、回想シーンはどのような時間の流れを持っているかといえば、10年から数ヶ月のスパンで描かれる、登場人物たちとバスケの関係性が持つ「時間」である。それぞれがここにいる経緯、そしてバスケへの思い。これらは断片的なエピソードとして描かれつつ、しかしやはり、ある一点へ向かって進行するベクトルを持っている。

その一点を具体的に語ったのが、桜木花道だ。桜木は、怪我を押してでも試合に参加するため、自分の栄光時代について「オレは今なんだよ!!」と叫ぶ。未来など考えず、自分のすべてをその刹那に賭けること。バスケとともに過ごしてきた時間、その積み重ねが、その一点へと集約されていくのである。その“今”への思いは、桜木と同じ湘北メンバーだけでなく、対戦相手の山王のメンバーにも、共通した強い思いであろう。

絵コンテ先導ではなく「素材を編集する」作り方


こうして映画は、勝敗の決する試合終了へと進む時間と、自分のすべてをぶつける“今”という時間が、重なり合って進んでいくのである。
このような語りが可能になった理由こそ、本作の特殊な立ち位置によるものだろう。というのも、止まることなく進行する試合シーンと、回想シーンを組み合わせるには、通常の脚本や絵コンテ作業では難しいからだ。この語りは、先述の通り、モーションキャプチャーで試合展開に合わせたさまざまな動きを捉え3DCGで表現するという前提でなくては、実現しなかった。

通常のアニメの制作工程では、脚本を踏まえて絵コンテが描かれ(俗に絵コンテを切るという)、それによってカットの内容とそのつなぎがほ確定し、作品の全貌が見えてくる。しかし、試合シーンの動きやそれを追うカメラワークなどは、普通の絵コンテでは描ききれるものではない。どうしても3DCGのプリヴィスなどをもとに編集してみないと、どんな映像になるかが見通せない。

だからおそらく本作は、使う可能性のある素材(試合シーンの動画や回想シーンの絵コンテなど)を一旦並べた上で、そこにからセレクトして、一本の映画に組み上げていったのではないだろうか。このアプローチは通常のアニメの作り方というよりも、実写作品の編集に近い。
実際、本作の編集担当である瀧田隆一は実写畑の編集マンだ。また公式サイトのスタッフインタビューを見ると、編集作業の過程で、足りないカットがあれば井上雄彦監督がその場で絵を描いてインサートするということもあったということからも、通常の絵コンテ先導型の作り方ではないことがよくわかる。

このバスケシーンを3DCGでリアリティたっぷりに描くというコンセプトが、「素材を並べてそこから組み上げる」というアプローチにならざるを得なかった理由であり、ここが本作の例のないところであるのだ。そして、本作は完結した原作からどこを選ぶかという「原作エピソードの編集」と、そのエピソードが持つにある時間をどう組み合わせるかという「映像の編集」という2つの編集によって成り立っている「編集」の映画であることも、ここから見えてくる。

■主人公が宮城リョータである理由


では、本作において新たに主人公を務めた宮城リョータは、どのような理由で主人公たり得ているのだろうか、基本的に「原作エピソードの編集」でできている本作だが、ご存知の方も多いように、リョータとその家族についてのエピソードは、実質的に新たに語られたものとなっている。

リョータが主人公である理由のひとつは、まず映画には「試合以外の経糸が必要」だからである。どれほど思いを込めて闘っても、試合の勝敗そのものには勝敗以上の意味はない。「勝ち」や「負け」を、自分の人生に照らし合わせて、その意味を見ける人物がいない限り、試合はドラマとして昇華しない。リョータは、そうした役割を担っており、だからこそ彼の家族の物語がフィーチャーされることになった。

そしてリョータは「未来」という時間を指し示す役割も担っている。桜木が示した「今」という時間。その「今」が試合終了とともに消えてしまった後、そこには何が残るのか。その疑問に対してリョータは、その「今」は未来へと続くものだということを具体的に示す役割も担っている。

原作のラストが、青春の大きな区切りを迎えた後の、凪のような時間を描き、ほのかに未来を感じさせる形だったのに対し、本作はもっとずばり「今」の先に「未来」があるということを描いた。
描くものが変わったからこそ主人公もまた変わったのか、主人公が変わったことで描くものが変わったのか。それはわからないが、ファンがまた大切に思える3つ目の『SLAM DUNK』を得たのは間違いないことのように思える。

《藤津亮太》

特集

この記事の写真

/
【注目の記事】[PR]