『劇場版からかい上手の高木さん』「一度きりの夏」の向こうに映る2人の「長い時間」【藤津亮太のアニメの門V 第84回】 | アニメ!アニメ!

『劇場版からかい上手の高木さん』「一度きりの夏」の向こうに映る2人の「長い時間」【藤津亮太のアニメの門V 第84回】

※この記事では『劇場版からかい上手の高木さん』のラストシーンに触れています※

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※この記事では『劇場版からかい上手の高木さん』のラストシーンに触れています※

『劇場版からかい上手の高木さん』を見て、「劇場版」であることを堪能した。
ご存知の通り『からかい上手の高木さん』は、中学生・西片くんが隣の席の高木さんにからかわれて、ドギマギする様子をコミカルに描いたシリーズで、ミニマムなシチュエーションのラブコメの草分け的存在といえる。

本作は山本崇一朗の同名原作のアニメ化で、2018年にTVアニメ第1期が放送され、2022年1月からは第3期が放送された。第1期のときは中学生だった西片と高木さんも第3期では中学3年生になっていて、劇場版では第3期最終回の続き、中学3年生の夏の日々が描かれる。原作は継続中だが、今後のアニメ化がどうなるかはアナウンスがなく、今回の「劇場版」は実質的にアニメ『高木さん』の完結編といった趣の作品に仕上がっていた。

ミニマムなシチュエーションにおける西片の独り相撲に特徴のある作品なので、「劇場版」といってもへんに大げさなストーリーになったりはしていない。物語は西片と高木さんの“半径50センチ”の範囲を出ることはない。

それでも「劇場版」であることを堪能できたのは2つの理由がある。ひとつは、映像の味わいが深いシーンが多かったこと。劇場版らしい凝った映像が、キャラクターの魅力をぐっと増していた。もうひとつは、この「劇場版」は「長い時間の中の短い時間を切り取ったものだ」という意識が明確にあったこと。だから「ひと夏の物語」の向こうに「長い時間」があることが感じられる。

まずインパクトがあったのはアバンタイトルだ。雨が降り始めたことを知り、通学バッグに傘を入れていないことに気づく西片。一方、高木さんは用意周到に傘を持っている。雨に濡れたくなくアレコレ悩む西片のノートに、高木さんが「相合い傘」を書く。「これは相合い傘で一緒に帰ろうということなのか」と、照れくささ、うれしさ、あせり、そして「またからかわれているのではないか」という疑い、そんな様々な気持ちで心を乱す西片。けれど、そうやってドギマギしている間に、高木さんは“相合い傘”に横棒を書き足して、「魚の骨」の落書きにしてしまう。いつものように翻弄された西片の「高木さんめ~」というつぶやき。そしてその頃、雨は上がっているのだった。

言葉にするととてもシンプルな内容だ。「からかい上手」というタイトルの意味を説明し、高木さんと西片の距離感を最短距離で理解してもらうために作られたエピソードだが、この時の、高木さんがとても魅力的に描かれている。

ちょっとした表情の変化、仕草などを丁寧に拾った高木さんの芝居がとてもいい。また高木さんの表情を、若干俯瞰の位置から広角レンズでとらえるなど、TVではやっていなかったようなレイアウトも登場して、これもまた印象に残る。椅子に座った2人が話をしているだけ、という縛りがあるシチュエーションの中、高木さんの魅力で、本作の作品世界を観客に納得してもらおうという意気込みが感じられるアバンタイトルだった(このクオリティで全編展開されたらどうなってしまうのか……!とこちらがアセるほどだった。もちろん本編も魅力的だが、アバンタイトルの出来栄えは別格だった)。

「劇場版」を見てから第1期第1話を見ると、画面はかなりあっさり味な仕上がりで、ちょっと驚くほどだ。これはTVと劇場版という違いに加えて、3期までシリーズを重ねることで、スタッフの中でキャラクターが成熟し、より凝った表現でそのキャラクターの存在感を表現したいという欲求が高まったという部分もあるのではないだろうか。

こうして始まった「劇場版」の序盤は、高木さんにからかわれる西片という、TVシリーズと同じような小さなエピソードを積み重ねていく。内容的にはTVシリーズの延長線上といった趣だが、美術はTVの時よりも大画面で見ることを意識した密度や質感で描かれている。これにより「風景の中にいる登場人物」という印象の画面が増えた。

本作のモデルは小豆島。登場人物たちがふるさとの景色の中で(それを強く意識することなく)生きている印象が強まったことで、実感をともなって浮かび上がってくる。「今見ている風景」は、いつもの風景に見えて、「今だけの風景」なのだ。それは作中で強調される「中学3年生の夏は一度きり」という事実と結びついている。

映画は後半、子ネコを拾った高木さんと西片が、ハナと名付け、神社の一角で面倒を見ながら里親を探すという展開を用意し、“いつもの『高木さん』”からはみ出して、映画的盛り上がりを作る。しかしビジュアル的な山場は、その前に出てくる「虫送り」のエピソードのほうだろう。 

「虫送り」は、小豆島の中山地区で約300年前から行われている行事。火手(ほて)と呼ばれる大きな松明を持ちながら、棚田の中を歩いていくというもの。この棚田は「千枚田」と呼ばれ、日本の棚田百選にも選ばれた特別な風景。火手の炎が稲につく虫を海へと送り出すと信じられているのだという。いくつかの経緯が重なって西片はこの「虫送り」を手伝うことになり、高木さんもそれに同行する。

ここで「虫送り」に参加したものの、オバケを怖がる子供の気持ちをほぐしてあげる西片の姿を描くことで、あたふたしてばかりの西片の魅力をピックアップする。これが終幕にも効いてくるのだが、ここで注目したいのは、繊細な光の扱い方。

夜の棚田はかなり暗く描かれており、その中で火手などの炎が登場人物を照らす主な光源として描かれる。普通ならそれだけで終わるところだが、このシーンは炎で影になった側に、月光のような青いハイライトを入れているのだ。これで夜の棚田のシンとした空気や、「虫送り」のシーンの特別な時間の感じが伝わってくる。また暗い棚田の中を、火手を持った行列が進んでいくロングショットも美しいが、やはりキャラクターに寄った時の照明の設計が、このシーンを際立たせていると思う。

「虫送り」の時間がそうして特別に描かれれば描かれるほど、最後に2人がバスを待つバス停での時間が「魔法の時間が終わりつつある」感が増して見えるのだった。

ビジュアルだけでもこれだけ見ごたえがあったのだが、ストーリーもうまく構成されていた。先述のように前半は「からかい」のエピソードを積み重ね、後半は「虫送り」と「子ネコ」のエピソードで物語を盛り上げ、最後は夏祭りの花火で映画を締めくくる。夏祭りの花火のエピソードは第2期第12話「夏祭り」(中学2年生の時の出来事)と韻を踏んだ構成だ。

ここでポイントなのは「虫送り」と「子ネコのハナ」も、“不完全燃焼感”の残るエピソードということだ。
「虫送り」のエピソードは裏側に「ホタルを一緒に見られたら、その2人はずっといっしょにいられる」というウワサ話が配されている(このウワサ話は第1期13話(OVA)「ウォータースライダー」に出てくる、一緒に滑ると両思いになるというジンクスと韻を踏んでいる)。高木さんは真野からその話を聞いた上で、ホタルを見たいと思い、「虫送り」を手伝う西片と一緒に中山区まで来たのだった。そして「虫送り」をしながら、西片も一緒にホタルを探すが、(時期外れの)ホタルは見つからないのだった。

「子ネコのハナ」は、西片と高木さんが一生懸命ハナの面倒を見るエピソードで、その2人の姿にはままごとごっこのような可愛さがあり、ペットショップのオウムからは「いい夫婦」とからかわれたりもする。なかなか里親が見つからず、最終的に高木さんがネコ嫌いのお父さんを説得して飼うことになる。しかし、こちらも思わぬ形でハナのエピソードは決着し、ハナは高木さんの家のコになることはかなわない。
この2つの“不完全燃焼”なエピソードは、叶わなかったからこそ「中学3年生の夏は一度しかない」ということをくっきりと印象付ける。

実はこの「ホタル」と「子ネコ」というエピソードは、エンドクレジット後に描かれる最後のエピソードに繋がっている。それは「お話のまとめ方が巧みだ」ということより、中学3年生のあの「不完全燃焼でもかけがえのない思い出」が、その後の人生の予感めいたものだったということを、指し示すものだったことがわかる。ここで「一度きりの中学3年生の夏」というものが、ただ通り過ぎて消えてしまうものではなく、長い人生の中のかけがえのない一部分として「残っていく」ものでもあることが示される。

西片と高木さんは、中学2年生の時は一緒に見ることができなかった花火を、2人で見上げることになる。ここで2人は、互いに「幸せにする」と言葉をかわす。この時、2人はきっとそこから続く長い人生の扉を開いたのだ。ここでTVの時から描いてきたミニマムな世界における『高木さん』の物語は終わったのだ。そしてもっと僕らが知っている『高木さん』の物語は、西片や高木さんの長い人生の中の一部分へと戻っていったのだ。
ビー玉を覗き込むと見える世界のような、小さいけれどキラリとした「劇場版」だった。

《藤津亮太》

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