映画『犬王』に流れる「音楽」という電流、そしてそこで生まれる「私という光」【藤津亮太のアニメの門V 第83回】 | アニメ!アニメ!

映画『犬王』に流れる「音楽」という電流、そしてそこで生まれる「私という光」【藤津亮太のアニメの門V 第83回】

※この記事では『犬王』の重要なシーンに触れています。※

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※この記事では『犬王』の重要なシーンに触れています。※

宮沢賢治は『春と修羅』の序の冒頭を次のように書き始めた。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

さまざまな解釈が試みられている部分だが、自分としては次のように解釈した。

因果とは、過去の出来事がが自己を決定する要因。有機とは物質的・身体的に自己を決定する要因。因果と有機によって形成される「電燈」が身体であり、そこに交流電流のような「何か」が流れると、そこから「」が発せられる。その「光」こそが、「わたし」なのである。電燈=身体という物理的な存在が私ではなく、そこに電流が流れた時、刹那に生まれる現象こそが「私」であるというわけだ。

突然、宮沢賢治を引用したのは、『犬王』を入り口に、湯浅政明監督作品についていろいろと考えていたからだ。湯浅作品には、登場人物が「私」を解放するシーンがしばしば登場する。この、ある刹那に立ち現れる「私」は、宮沢賢治が記した「光としての私」に似ていないだろうか。

例えば、監督デビュー作『マインド・ゲーム』は、主人公・西を始めとする登場人物たちが、自分たちの人生を生き直そうとする物語だ。彼らが生き直そうとする時、ダンス・シーンが大きな意味を持って挿入される。音楽に身を任せて、身体が反応するがままに踊ること。その刹那、本当の私が解放されていく。そしてここに立ち現れた「私」を信じて、西たちは生き直しを始めるのである。ここでは、単なる有機物でできた肉体でしかない「電燈」が、音楽という電流を受け取って、本当の「私」が輝き出すのだ。

さらに『マインド・ゲーム』では因果としての「私」も描かれている。戦前から移り変わっていく日本の世相の中で、各登場人物がどのように生きてきたかを総覧する長いシーンがラストに挿入されるのだ。ここではキャラクター同士の意外な接点もまた明かされ、ある種の運命の悪戯が各キャラクターの人生を編み上げていることが示される。このシーンでは、「私」の身体が「因果」の結果の産物であることが示されている。

このような観点で読解できるのは『マインド・ゲーム』だけではない。紙幅がないので、手短に記すが、『ケモノヅメ』『カイバ』は「有機交流電燈」である身体に「私」が立ち現れるとき、何が「電流」なのか、という物語だ。『ピンポン THE ANIMATION』では、ペコとスマイルの中に童心を蘇らせる=私を立ち上がらせるのは、卓球という電流で、『夜明け告げるルーのうた』では、ルーという人魚の子供がきっかけとなって、カイという少年に「歌うたいのバラッド」という歌=電流が流される。思春期の只中にいるカイは、歌うことで「私」というものを把握するのである。

一方、森見登美彦の小説を原作とする『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』などは、「因果」の結び目である身体が、その因果に振り回されるところに「私」が浮かび上がる物語として位置づけることができる。また恋人を失った女性の“喪の仕事”を扱った『きみと、波にのれたら』はまさに「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」という状態を描いたものと考えられる。

そして最新作の『犬王』もまた、「有機・因果交流電燈」として存在する身体、そしてそこに流れる「音楽」という電流、そしてそこで生まれる「私という光」の物語であった。

『犬王』の原作は古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』。室町時代初期、猿楽の一座に生まれた異形の子・犬王と、平家の呪いで盲目となり琵琶法師となった友魚が出会い、その圧倒的なパフォーマンスで民衆を魅了していく姿を、圧巻の音楽シーン(猿楽のパフォーマンス)で描き出している。

壇ノ浦の漁師の子供だった友魚が盲目となったのは、都からやってきた貴族たちに、「壇ノ浦の合戦で沈んだ三種の神器を海底から拾い出してほしい」という依頼を受けた結果だった。ここでは「因果」が「有機」に干渉することで、友魚という「電燈のあり方」が決められた様子が描かれる。

一方、犬王は異形の姿で生まれ、両親からも疎んじられているが、彼の異形の身体もまた「因果」が「有機」に干渉した結果の産物だ。犬王の父は猿楽師で比叡座の棟梁。彼はその道を極めるため、魔物と取引をし、その誓約通りに琵琶法師を連続して殺す。そしてさらには、妻の胎内にいた犬王を魔物に捧げ、かくして犬王は異形の姿として生まれ落ちたのだった。

そんな犬王と友一(友魚は覚一座に属す琵琶法師となって改名する)の「因果/有機交流電燈」に流れ込むのは、「平家物語」という交流電流だ。

源氏に敗れ去ったものたちの物語。しかも2人が取り上げるのは、正史として伝わる「平家」ではなく、平家の隠れ里などに伝わる稗史(正史ではない民間で編纂された史書や、または伝聞の記録)としての“平家”。社会の中で辺縁に押しやられる弱き者が、弱き者の物語を猿楽としてパフォーマンスする。そこに「私という光」が現れる。

『犬王』では、犬王と友一の猿楽が、あたかもロックなどのライブパフォーマンスに近く表現されている。これは『マインド・ゲーム』でダンスが、「私」を取り戻すために必要な「電流」だったことと同じだ。

五感を通じて、世界とインタラクションすること。その刹那に「私」が認識される。この五感を通じたインタラクションをもたらすには、音楽とダンスによるパフォーマンスは最も適している。ひたすらに流れていく音楽=電流によって、世界とインタラクションし、忘我の域に達したところに、光=私は現れるのである。

かくして犬王と友一は、猿楽のパフォーマンスを通じて「自分」というものを更新していく。パフォーマンスを重ねるごとに、犬王の身体は異形でなくなっていく。友一は、稗史である“平家”の物語を含む「犬王の巻」を、自らの曲としていく。彼らの名声は高まり、最終的に2人は将軍・足利義満の前で猿楽「竜中将」を演じることになる。社会の周縁にいたものたちが、民衆の圧倒的な指示を受けたことで、社会階層のトップへと接近することになったのだ。

「竜中将」を演じた時、魔物によって犬王にかけられていた呪いがすべて解ける。こうしてそれまでつけていた面をはずし、直面で舞う犬王。だが、それは彼が素顔で生きていけるようになったということを意味しない。犬王はここから素顔=直面というペルソナをつけて生きていくことになるのである。事実、「平家」の稗史を題材にした猿楽は、義満に禁じられた時、犬王は友一を助けられるのならばと、そのペルソナの下に怒りを押し殺して、笑顔でそれを受け入れる。だが「平家」の稗史を舞わない犬王など犬王ではない。その後、どれほど義満の寵愛を受けようと、、犬王は「私という光」をこの時、手放してしまったのだ。

これまで「私という光」が解放感と希望に結びつくことが多かった湯浅作品だけに、本作はこのアイロニーに満ちた展開こそが、大きなポイントといえる。

犬王が「平家」を舞うことを辞めても、友一を救うことはできなかった。なんとしてでも「平家」を含む「犬王の巻」を謡おうとする友一は、最終的に加茂の河原で斬首されることになる。最後の瞬間、友一、友有と名前を変えて生きてきた男は、自らの名前を「五百(いおの)友魚」と、自分が生まれた時の名前を叫ぶ。ペルソナの下に自分を押し殺した犬王と対照的に、さまざまな名前を引っ剥がして、その下に眠っていた自分の始まりの名前を、人々に刻み込むように叫ぶ。

こうして犬王も友魚も歴史の中に埋もれ、誰も知る人のいない名前をなっていった。「電燈は失われ」たのである。だがこの映画はラストに「電燈は失われ」ても「光は保たれて」いることを示して終わる。

刹那に現れる光としての私。その私は一瞬で消えていくが、その一瞬という奇跡は、同時に永遠なのである。

《藤津亮太》

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