映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』―世界は狭く、そして広い【藤津亮太のアニメの門V 第80回】 | アニメ!アニメ!

映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』―世界は狭く、そして広い【藤津亮太のアニメの門V 第80回】

この記事では、映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』の重要な部分に触れています。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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この記事では、映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』の重要な部分に触れています。

狭い世界と広い世界。その間を繋ぐ細く赤い糸。狭い世界にいる少年たちは、その赤に導かれて、広い世界へと足を踏み入れる。『グッバイ、ドン・グリーズ!』という作品を端的に記すならこうなる。

高校1年生のロウマ(鴨川朗真)は、仲の良かったトト(御手洗北斗)が東京に進学してしまい、クラスの中で孤立中。夏休みに帰郷したトトは、ロウマがドロップ(佐久間雫)という同い年の少年と親しくなっていることを知る。この3人が、花火大会の夜の山火事の犯人だと、SNSで疑われてしまう。疑いを晴らすため、3人は、その夜の様子を撮影したまま風に流されてしまったドローンを探しに行くことになる。映画は、この3人の一泊の冒険を中心に描く。

舞台となるのは、東京から少し離れた田舎町とその周囲の森の中が中心だ。例外的にアイスランドの壮大な風景が登場するが、そのシーンは限定的だ。段取りや説明、登場人物を削ぎ落としたミニマムな描写で、この映画の四分の三から五分の四ほどは、ロウマたちの世界の“狭さ”を実感させるシーンが多い。セピアに傾いた画調も、鄙びたムードを強調する。ただし、それはこの田舎町の物理的な狭さではなく、あくまでもロウマやトトたちの持つ世界の狭さである。彼らは若者らしく、狭いその世界を、悩みながらグルグル歩いているのだ。

ドローンを探して旅に出た3人だが、道が通行止めだったり、クマにであったりとハプニングが積み重なり、結局山中を歩き回った挙げ句、滝壺に落ちて、結局昼間立ち寄った河原に戻ってきてしまう。そこから見上げる夜空も美しいが、木々に囲まれて狭い範囲しか見えていない。この狭い世界での、堂々巡りはそのままロウマやトトの迷いの表れでもある。だが、この回り道があればこそ、ロウマもトトも自分の悩みと向かい合うことができた。そこで大きな役割を果たしたのがドロップだ。

ロウマのカメラに残っていた1枚の写真。一面に咲き乱れる花が映った青い写真は、ロウマが憧れていたチボリ(浦安千穂里)がかつて撮影したものだ。ただし“一面の青”の世界は、ロウマにとって、そんな世界に馴染めない自分を思い出させる写真でもあった。

だがドロップは、その写真を見て、赤をとった写真だ、と指摘する。いわれて見ると、確かにそこには、青の世界の中で宙に舞うテントウムシの赤い軌跡が映っていた。このドロップが見つけた“”を通じて、ロウマの世界は転換を始める。この“赤”は、海外に留学したチボリとロウマを結びつける“赤”にもなる。またドロップはロウマだけでなく、トトの悩みを解きほぐす役割も果たす。こうして滴る“”が岩に穴を穿つように、ドロップは二人のいる狭い世界に穴をあけていく。

ではドロップは、どのような人間か。説明的な要素を徹底的に刈り込んだ本作では(なにしろロウマとトトの出会いのシーンもないのである)、ドロップのことを知るにはその台詞しか手がかりがない。そこから浮かび上がるのは「アイルランドに行ったことがある」「入院していたことがある」「今回の旅を通じて、15歳の最後の勇姿を2人に記憶してほしいと思っている」といったドロップの姿だ。ロウマとトトは、旅の中でドロップの余命がさほど残されていないということを察するようになる。

旅の終わり、3人が歩いていた県道は突然に湖に沈んでしまう。目的を達成することを拒むようなその唐突な終わりは、まるでドロップの人生を暗示するようでもある。失意の中、引き返すことになる3人。

しかしドロップは、そこで道をはずれ、山の中に足を踏み入れ、そこにドローンをみつける。昨日の堂々巡りがロウマとトトに変化をもたらしたように、本作では「正しい道からはずれること」が、新しい発見をもたらすものとして描かれる。ドロップには、もしかしてドロップアウトの意味も込められているのかもしれない。

ドロップが手にしたドローンの色は赤。このドローンのカメラで収録された映像を確認したロウマたちは、空から見た自分たちの田舎町が、とても小さいことを発見する。ドロップと“赤”によって、ロウマとトトは自分たちの世界の“狭さ”を知ったのである。

もちろんこれだけでも、少年の日の“往きて還りし物語”としては十分なのだが、本作の見所はむしろここからといってもいい。

季節は冬へと移り変わり、ロウマかトトからの電話でドロップが死んだことを知る。この前後でで病室のドロップも見せないで、3人が遊びの根城にしていた掘っ立て小屋の中だけで描いてしまうのも本作らしい語り口だ。

掘っ立て小屋にはドロップが2人のために最後に残したコーラのペットボトルがあった。小屋を壊して燃やす2人。残されたコーラを飲み干したロウマはそこにアイスランドの地図が残されたことに気づく。

ドロップが残した赤いラベルのコーラ。ここでドロップと赤は、2人を本当に広い世界へと導くのである。

やがて2人はアイスランドへと旅立つ。パンフレットによると、このシーンは2年後で、2人は高校3年生になっているという。ヘアドネーションのために髪を伸ばしている描写があることから推察するに、おそらくドロップの死因(おそらくガンだったのではないだろうか)も知った上での行動であったであろうことが推察される。

こうして2人が訪れたアイスランドの風景は非常にスケールが大きい。切り立った岩山。広がる湿原。日本の田舎町の小さくまとまった自然とは根本から異なる風景が観客を圧倒する。そんな風景の中のロウマとトトは、豆粒のように小さく描かれ、風景の一部に一体化している。

2人が探しているのは、ドロップが見たという「黄金の滝」とそこにある「電話ボックス」。ついに滝を見つけ、写真に収められないほどの多きさに圧倒されていると、遠くから電話の鳴る音が聞こえてくる。そちらへ向かうと緑の風景の中に、“深紅”の電話ボックスがポツンと建っている。

電話ボックスにたどり着いたロウマとトトは、そこが自分たちのゴールであっただけでなく、自分たちとドロップの「始まりの場所」であったことを知る。こうしてドロップと“赤”に導かれたロウマとトトの旅は、大きな円環を描いて締めくくられる。

そして広い世界に触れたロウマは思う。

自分がいるアイスランドと、チボリが今いるニューヨークとは決して遠くない。太平洋を中心にした日本の地図で見れば、地図の端のほうと端のほうだが、大西洋を中心に見れば、すぐ近くだ。世界の広さを知るということは、視点を変えれば“世界が狭い”と思えるようにもなるということなのだ。

こうして、狭い田舎町で狭い自分の世界に立ちすくんでいたロウマの価値観が大きく変わった様子を描いて本作は締めくくられる。これがドロップが残してくれた“宝物”なのかもしれない。

そのための第一歩こそ、永遠に続くように感じられていた夏の日の3人の旅だったのだ。

《藤津亮太》

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