アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」で人間と妖怪の距離感はどう変化していったのか? 藤津亮太のアニメの門V 第35回 | アニメ!アニメ!

アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」で人間と妖怪の距離感はどう変化していったのか? 藤津亮太のアニメの門V 第35回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第35回目は、2018年4月より放送中のTVアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』(第6期)の「妖怪」の描き方について。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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妖怪とは何者なのだろうか。

文化人類学者・民俗学者の小松和彦は、妖怪という言葉が非常に曖昧であると指摘したうえで、次の3つの分類によって、妖怪という概念を整理しようと試みている(『妖怪文化入門』角川ソフィア文庫)。

ひとつは「出来事としての妖怪(現象としての妖怪)」。
ふたつ目は「超自然的存在としての妖怪(存在としての妖怪)」
みっつ目は「造形化された妖怪(造形としての妖怪)」。

これを小豆洗いで説明するとこうなる。
まず、川の音に混じって奇妙に反復する音がするが、音が聞こえたあたりにいっても何もない、という怪現象が起きる。これが土地の人々で共通認識され、やがてこの現象に「小豆洗い」という名前がつけられる。

この名前が定着すると、現象から名付けが生まれるのではなく、逆に、超自然現象の説明として妖怪存在が使われるようになる。「奇妙な音が聞こえるのは、小豆洗いが小豆を洗っているからだ」というわけだ。
これは「悪い流行病が流行るのは怨霊や鬼のせいである」という場合などにも当てはまる。

そして、そういう存在がやがて造形化されるようになる。造形化は、むしろキャラクター化というとわかりやすい。
存在に個性的な外観が与えられると、怪現象やその説明という状況を離れて、妖怪というキャラクターとして独り歩きするということも可能になる。

この小松の整理を踏まえると、小説家の京極夏彦が「妖怪は漫画です」(http://www.osawa-office.co.jp/fun/vol9/index.html)と言っている意味もよくわかる。
江戸時代などにキャラクター化した妖怪像を踏まえつつ、魅力的なキャラクターとして日本の大衆文化の中に広く根付け直したのが、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪漫画だからである。

そうしてみると『妖怪ウォッチ』の、卑近な現象をネタにしたキャラクターたちが案外正統な来歴で造形された“妖怪”であることが理解できるし、国民的なキャラクターである『となりのトトロ』のトトロたちも、「突風」や「突然イヌが吠える理由」といった現象と深く結びついていることに意味があるキャラクターであることがわかる。

最初に長々と「妖怪とは何か」について記したのは、『ゲゲゲの鬼太郎』(6期)を見ながら、同作における「妖怪」の立ち位置について考えたからだ。
先述の通り『ゲゲゲの鬼太郎』は、キャラクター化された妖怪が織りなす世界に魅力がある作品だが、各期ごとに作品のテイストが変わるのに併せて、人間界と妖怪の距離感も変化している。

第6期の妖怪と人間界の距離感は、コインの裏表というか、別レイヤーで重なっている世界というか、そういうものである。
第5期が、ねこ娘(とろくろ首)が人間界でアルバイトをするなど「地続き感」があったのに対し、「繋がってはいない。でも、そばにある」のが第6期なのである。
それはトトロが雑木林に“たぶん”いるように、第6期の視聴者には、妖怪もまたちょっとした闇の中に、自分の背後に“たぶん”いる、というぐらいに感じてほしいのだと思う。そのあたりの温度感は、第4話「不思議の森の禁忌」でわかりやすく示されている。

そして、そういう距離感だからこそ、妖怪もまた人間の世界の「世相」と無縁ではいられないのが第6期なのだ。

たとえば第5話「電気妖怪の災厄」は、ねずみ男が電気妖怪かみなりを利用して安い電力を供給する会社を作るという、電力自由化を踏まえたエピソードだ。
過去に描かれたかみなりのエピソードは、いずれも人間の科学技術がかみなりを怒らせることになるという展開だった。
だが第6期のかみなりは(直接はねずみ男だが)人間の「安い電力は便利」欲望に利用されてしまうのである。しかも、ゆるキャラ化されキャラクター消費までされてしまうというおまけつき。

第9話「河童の働き方改革」も同様で、河童が安い労働力(時給はキュウリ3本)としてIT企業にこき使われる内容(こちらは「外国人技能実習制度」あたりが下敷きだろうか)で、社長は別に妖怪に取り憑かれているわけでもなんでもない、単なる意識が高そうな経営者というだけなのである。

この距離感が叙情に働くと、第6話「厄運のすねこすり」になる。
すねこすりは、第2期に登場した時は「イヌに似た妖怪」で、交通戦争で犠牲になったイヌの物語を巡る物語だった。これが第6期では、ネコに似た姿で、限界集落にひとり住む老婆の“側に寄り添う”心優しき妖怪として描かれている。

この距離感の特徴は、幽霊電車を扱った第7話「幽霊列車」でもよくわかる。
「幽霊列車」は過去に4回扱われている。第1期第53話は、妖怪を信じず妖怪をいじめた男たちを幽霊電車に誘い込む話で、第3期と第4期はほぼ同じ内容で、妖怪はいないと主張し鬼太郎に手をあげた男が、幽霊電車に乗り込んで懲らしめられる。第5期は、幽霊を信じない男が、幽連電車に乗ることで自らの隠した罪と対面する。

第5期まで「幽霊・妖怪はいる/いない」という軸が設定され、それがお話の枠組みとなっている。
しかし第6期は「(見えないけれど)すぐそばにいる」という距離感だから、そこは大きな枠組みとして採用されない。第5期の「自らの罪と対面する」という要素がフィーチャーされ、中小企業のパワハラ社長が何人もの社員を自殺などに追い込んできたことと、その因果応報が中心に進行する。
なにより特徴的なのは、そのパワハラ社長が幽霊列車に乗って死者たちに詰め寄られるまで、既に自分が死んでいることを知らず、人間にまざって夜の街をウロウロしていたという“オチ”の部分である。いかにも「(見えないけれど)すぐそばにいる」第6期らしい。
ちなみに第7話は、さらにもう1段オチがついていて「怪談」としても切れ味が鋭い。

まだはじまったばかりの第6期だが、この「(見えないけれど)すぐそばにいる」距離感がどのように描かれていくのか。
既に、妖怪の封印を解き放っている謎の存在がいるらしいことはほのめかされている。彼らは、この妖怪と人間の距離感にどのように干渉するのだろうか。

第3期以降、『鬼太郎』はいつも100話近く続いてきた。そう思うとまだ先は長い。
人間と妖怪の関係性に注目しつつ、今後の展開を楽しみにしたい。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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