アニメ映画における「総集編」 と「新作」の境界線 藤津亮太のアニメの門V 第27回 | アニメ!アニメ!

アニメ映画における「総集編」 と「新作」の境界線 藤津亮太のアニメの門V 第27回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第27回目は、アニメの“総集編映画”にまつわる問題について。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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'77年に劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が公開されヒットすると、さまざまなアニメ映画が続いて公開されるようになった。劇場版『ヤマト』がTVシリーズのフィルムを編集し、一部新作を加えたいわゆる“総集編映画”だったことは後世に大きな影響を残すことになった。同じように“総集編”スタイルで作された映画『機動戦士ガンダム』3部作を経て、この手法はアニメ映画のひとつのスタイルとして定着することになった。
既にあるTVシリーズの素材をベースに映画を作ること。企画という面からはそれは予算とスケジュールの問題に還元されるが、ここではそこを一旦置いて、むしろ映像の問題としてここを考えてみたい。

まずいわゆる“総集編映画”には「新作」にまつわる問題がある。
かつては完成したフィルムを再編集し、一部に新作を加えるぐらいしか手法がなかった。そこでは「既存映像」と「新作」の間に明確な区別があった。だが、現在はTVシリーズの素材まで遡って再撮影をしたり、あるいはTVシリーズの映像に加筆・修正を加えるケースも多数あり、「新作」(本質的な意味でいうなら再撮影されていたら映像としては「新作」だ)と「総集編」の境界線は、実質的にはかなり曖昧になりつつある。そういう状況の中で、どこまで手を加えるのか、どのように手を加えるのかという作り手の姿勢が出ることになる。

たとえば、TV制作後、なんと30年が経過して制作された『機動戦士Zガンダム A New Translation』3部作(いわゆる『新訳Zガンダム』)を見ると、この「どこまで手を加えるか」について考えざるを得ない。
新作(HDによるデジタル制作)と既存映像(もともとは16mmフィルム)というハード面での越えがたい差に加え、レイアウトや絵柄の捉え方などの変化など、この企画は当初から非常に難しい問題を抱えていた。
完成した作品は、部分的に手を入れつつもTVの時の既存映像はかなりの量使われていた。それは『Zガンダム』という作品において、「基底現実」は「TVシリーズの映像である」ということを否応もなく示していた。

アニメは絵なので、描き直すことはいくらでもできてしまう。描くということは、新しい現実を作り出すことだ。だからもし完全新作の劇場版『Zガンダム』が存在したとすると、それは2005年に作られた、もう“1本の『Z』”であって、1985年のものとはまったく関係ないもうひとつの「現実」となってしまう。
つまり『新訳Z』は、別の現実を作り出すのではなく、TVシリーズの存在を認めつつ、最小限の変更(特に映像はほぼ同じなのにセリフが違っているカットに注目したい)を施すことで「基底現実」を上書きしようとした作品として、解釈ができるのである。

既に存在している映像を「動かすことのできない現実を捉えたもの」として考えること。
思い返せば、高畑勲監督は、『母をたずねて三千里』の総集編映画を作ることになった顛末(逃がした魚は大きかったか?「母をたずねて三千里」再編集顛末記『映画を作りながら考えたこと』所収)の中で、次のように記していた。

「この物語は、みかけは母への愛の物語のように見えますが、それは口実にすぎず、実のところ、膨大なエピソードの積み重ねによる友愛と人間信頼の物語なのでした。(略)さて、ここに、いまお話したようなことを描いた膨大なフィルムがある。これをドラマと思わず、仮に現実だったと考えたらどうだろうか。」

これもまた、TVシリーズを「基底現実」と考えるものと共通しうる姿勢といえる。“総集編”映画を考える時に、この「基底現実」との距離は大きなポイントといえる。
高畑のこの一文がおもしろいのは、この後だ。高畑は、TVシリーズを、マルコに密着したドキュメンタリーフィルムの素材と仮定し、帰国したマルコが人々に自分の体験を語る形で、時系列にとらわれない編集が可能になるのではないかと夢想する。このアイデアが原稿のタイトルである「逃した魚」というわけだ。

「マルコの話が始まる。それを聞く人にとってはパラナ河がアルゼンチンのどこにあって、マルコはどこからどこへ行くためにパラナ川を遡ったのかは大して重要ではない。(略)エピソードにリアリティがあり、描写が喚起的であるならば、必ずしも脈絡がよくわからなくても関心がもてるはずではないか。いわゆるドラマだと思えば筋がとぶとついていく気を失うけれど、現実に苦難を終えた人の話を聞くという形であればテーマにしたがって画面をみつめるはずだ。」

TVの「時間」で綴られたストーリーを、映画の「時間」へと作り変えるにはどうしたらいいか。ここでは“総集編映画”にまつわるもうひとつの問題、「時間」についてのラジカルな回答が記されているのだ。

この「主人公を語り手に、ノンリニアに語る」というスタイルは『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』(本作は厳密な意味では“総集編映画”にあたらないが、TVシリーズの素材を中心に制作されているのでここでは同種のものとして考える)が奇しくも実現してしまっているのはおもしろい。
(ここで、リニアなドキュメンタリーを目指した『ドキュメントダグラム』やバラエティショー的な『ザブングルグラフィティ』にまで話題を広げてもいいが、それはさすがに紙幅が足りないので、今回は触れずにおく。)

現在、『劇場版 響けユーフォニアム~届けたいメロディ~』、『ハイキュー!! コンセプトの戦い』という2つの総集編が公開中だ。どちらもハイレベルなTVシリーズで知られており、先述したとおり「新作」と「総集編」が曖昧になった時代を象徴する「総集編映画」といえる。
また、10月21日からは総集編劇場版第1作となる『コードギアス 反逆のルルーシュI 興道』が公開される。こちらはあの濃厚なストーリーをどう3部作にまとめているのか。その取捨選択――つまり時間のコントロール――をいかにしているかが作品をより深く楽しむポイントになりそうだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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