『けものフレンズ』が描いた「人間ごっこ」が「人間らしさ」へ移り変わる瞬間 藤津亮太のアニメの門V 第21回 | アニメ!アニメ!

『けものフレンズ』が描いた「人間ごっこ」が「人間らしさ」へ移り変わる瞬間 藤津亮太のアニメの門V 第21回

連載・コラム 藤津亮太のアニメの門V

  
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1月期のTVアニメではダークホースの『けものフレンズ』が話題をさらっていった。放送と並走しつつ細部から作品の世界観を探り当てようとするファンも多く、ネットでもたいそう盛り上がっていたが、本作の魅力はつまるところ、「人間ごっこ」から「人間らしさ」へのシフトの部分に存在していたといえる。

本作の舞台はジャパリパーク。サファリパークのような施設で、そこにはフレンズと呼ばれる美少女キャラクター化された動物たちが暮らしている。そこに突然現われたのが、記憶を失った主人公。耳も尻尾もないかわりに、カバンを背負っていた彼女は“かばん”と名付けられる。かばんは、自分が何者なのかを知るために、知り合いになったサーバルキャットとともに、ジャパリ図書館を目指すことになる。かくしてかばんは、パーク内のさまざまな“ちほー(地方)”を巡り、さまざまなフレンズと出会っていくことになる。

フレンズは、美少女キャラクターという大枠の中に、動物の特徴的な要素を記号化して巧みに落とし込むことでできあがっている。言動もモデルとなった動物の特性の範疇の中に設定されている。つまり「動物が人間ごっこをしている」状態なのだ。
そこに輪をかけているのが、セルルック3DCGという表現スタイルだ。セルルック3DCGは、手描きアニメの絵に似ているがゆえに、3DCGならではの量感や“デッサン的な意味でのうそのつけなさ”が際立つ瞬間がある。その時、視聴者には登場人物が“人形”のように感じられる。ここでも現実の人間に対する「模造=ごっこ」であるという、アニメの持つ一側面が露わになっており、フレンズたちの「人間ごっこ」感はさらに際立つことになる。
シリーズ前半の数話に漂っていた不穏さとは、こうした表現上から漂う「人間ごっこ」感と、断片的に描かれる「ジャパリパークがサービスを停止しているらしい」「人間もいないらしい」という設定が呼応することで生まれていた。人間不在の世界で、人間ごっこに興じる動物たち。五指がありながらジャパリバスのハンドルを握れないサーバルの姿は、そんな「人間になりきれない人間ごっこ」の象徴だ。

そんな「人間ごっこ」の世界の中で、ひとりだけ正体不明な存在が、主人公であるかばんである。(実はかばんの正体もこの「人間ごっこ」の範疇に含まれるが、ここでは深入りをしないでおく)。
かばんが自分の正体を知るためジャパリバスで移動していくというあらすじはちょっとした冒険ものの趣もあるが、本作はそこに力点があるわけではない。さらに言えばかばんは不在の記憶について思い悩むわけではないし、ストーリーの中でも彼女の正体や記憶の欠落がことさらエモーショナルに取り上げられることもない。本作のトーンはむしろ、主人公たちに強い葛藤を用意しないほのぼのとしたもので、いわゆる“日常系”と呼ばれる作品群に近い。

そしてそんなほのぼのとしたトーンの中から、かばんが何者であるかが次第に浮かび上がってくるのが、本作の前半の見どころであった。
こういった“謎”をめぐる物語の場合、人はしばしば“謎”の回答がいかに精緻に考え抜かれているか、に注目が集まりがちだ。もちろん回答が精緻であるにこしたことはない。だが、もっと大事なのは、その“謎”が明かされる過程がちゃんとエンターテインメントになっているか、という点なのだ。その点で、本作は非常に巧みであった。

一番のポイントは、かばんは「正体不明」といわれつつも、どう見てもフレンズではなくヒトである、という点にある。作中でサーバルが指摘している通り、かばんには耳や尻尾がない。そこをわざわざ指摘している点も含め、初登場の時点からかばんはヒトであるということが衆目の一致するところなのである。
視聴者は最初から「かばんはヒトではないか」という予想のもとに放送を見ている。その上でシリーズ前半は、さまざまな課題をかばんが中心となってクリアしていく展開が繰り返される。たとえば第1話「さばんなちほー」では、フレンズを襲うセルリアンを陽動するため、かばんは紙飛行機を折る。第2話じゃんぐるちほー」では、浮橋を作る。ジャパリ図書館に到着した第7話「じゃぱりとしょかん」では、火を使ってカレーを調理する。
これらの描写は、視聴者の「かばんはヒトであろう」という予想を裏付けるものだ。ここで「疑問と回答の連鎖」が生まれている。この連鎖が、視聴者にとってのエンターテインメントになっている。
しかも、かばんがヒトであろうという確信を深めていくのは、視聴者その人しかいない。視聴者の中でのみ「疑問と回答の連鎖」が完成していて、作中の登場人物はまだ気がついていない。そのもどかしさもまたエンターテインメント感につながっている。

物語は第7話までがかばんの正体を知るための旅で、第10話「ろっじ」からは、かばんが生まれた背景とかばんのこれからに焦点があてられていく。ここで物語はぐっと、かばんとサーバルの心情に寄り添うことになる。

人間の感情を大雑把に喜怒哀楽と考えると、おもしろいもので「喜」「楽」をそのまま描いてもあまり“人間性”は際立たない。「怒」「哀」という葛藤の果に生まれた感情のほうが“人間性”が際立つ。本作の場合、サーバルが思わず涙を流したり、セルリアンを恐れながらもサーバルとかばんがお互いを救うために他利的行動をとる様子を通じて、2人がとても人間らしく感じられるようになる。それはかばんを助けるために集まってきたさまざまなフレンズについても同様だ。

シリーズ前半では「人間ごっこ」の中でかばんがヒトであるという設定を積み上げてきたが、物語のクライマックスの行動でかばんも含めて各キャラクターの「人間らしさ」がドラマとして立ち上がってくるのだ。この転換がクライマックスの感動ポイントになっている。
これがもっと劇的な展開やテンション高めの演出で語られる作品だったら、クライマックスがシンプルな種族の枠を越える利他的行動だけでは物足りなく感じられただろう。本作は、ほのぼのとしたトーンの中で「人間ごっこ」に軸足を置いてきたからこそ、かばんとサーバルの利他的行動が十分、人間的=ドラマチックに響くのだ。
企画・題材(この作品の場合、それはフレンズというキャラクターのあり方に集約される)と語り口のトーン、そしてお話の見せ方がうまく噛み合ったのが、視聴者人気という結果に結びついたのだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。  

《藤津亮太》

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