“漫画映画”を無意識のうちに再発明した「ひるね姫」のユニークさ 藤津亮太のアニメの門V 第20回 | アニメ!アニメ!

“漫画映画”を無意識のうちに再発明した「ひるね姫」のユニークさ 藤津亮太のアニメの門V 第20回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第20回目は「ひるね姫」について。毎月第1金曜日に更新中。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『ひるね姫~知らないワタシの物語』が3月18日から公開される。
同作のモチーフは「夢」。東京オリンピック開幕を3日後に控えた2020年夏を舞台に、岡山県の高校3年生・森川ココネが体験するファンタジックな冒険が描かれる。

最近昼寝ばかりのココネの夢の中に現れるのは、ハートランド王国のお姫様・エンシェン。魔法使いのエンシェンは、父である国王によってガラスの塔に閉じ込められていたが、国をおそう“鬼”をやっつけるため、塔を抜け出してしまう。一方、現実のココネにも大事件が降りかかる。父のモモタローが警察に拘束されてしまったのだ。父を助けるため、ココネは東京まで旅をすることになる。
このココネの行動と夢の中のエンシェンの行動が、不思議と重なり合い、映画は現実と夢が交錯しながら進行していく。そして、現実と夢を繋ぐ“線”こそが、本作のドラマの中心にあるものだ。

本作を見た時にまず感じたのは、女子高生が主人公で、タブレットや自動運転技術などハイテクガジェットも登場するにもかかわらず、その本質的な部分は“漫画映画っぽい”ということだった。
この“漫画映画っぽい”という感覚は説明するのがなかなか難しい。“漫画映画”というのは、単にアニメの昔の呼び方という以上の意味合いを含んでいて、かつ厳密な定義があるわけでもないので、なかなか扱いが難しい単語なのだ。

“漫画映画”としてよく例に挙げられるのは東映動画(現・東映アニメーション)の初期の長編作品のいくつかだ。『長靴をはいた猫』(69)や『どうぶつ宝島』(71)がその代表的作品といえる。またスタッフや作風的にこの東映長編の流れを汲んでいる『パンダコパンダ』(72)や『ルパン三世 カリオストロの城』(79)も“漫画映画”らしい作品としてよく言及される。
2004年に開催された展覧会『日本漫画映画の全貌』の図録には、同展覧会の構成を手掛けたなみきたかしが、次のような一文を巻頭に寄せている。

「本展で意図する漫画映画とは、まず劇場用のオリジナル度の高い作品であること。そして、ハッピーエンドな結末であるか、希望を強く示唆するお話であるということ。というようなものです。あるいは作り手が、観客に向かって善意を信じ、誠意を持って制作した作品とも言えるでしょうか。」

同図録にはさまざまな人物の寄稿も載せられているが、いずれも“漫画映画”の存在を前提にしながら、その指し示す範囲は書き手によってかなり違いがある。たとえば、作り手の姿勢がジャンルを規定しうる根拠といえるのかどうかという部分も含め、“漫画映画っぽさ”というものが、曖昧であるがゆえに多くの人に漠然と共有されている、という現状がこの図録を読むとよくわかる。

ちなみに、当欄としては“漫画映画”を、シンプルなキャラクターを中心に置き、登場人物の無垢な部分を通じて真・善・美を表現することで、カタルシス(浄化)をもたらす作品、といったニュアンスで捉えている。
中でも、登場人物の無垢な部分というのが大事で、思春期的な自意識の問題やそこから生まれる葛藤が前面に出てくると、“アニメ”っぽくなって“漫画映画”っぽくはならない。ボーイ・ミーツ・ガールはあっても性の問題は登場せず、活劇はあっても暴力はないのが“漫画映画”といえる。

『ひるね姫』は、監督の作風的にもスタジオの系譜的にも、東映動画に源流を持つ“漫画映画”からは遠い。しかも舞台は現代日本で主人公は女子高生である。本来なら“漫画映画っぽく”はならないはずのポジションの作品なのだ。
ところが、それがなぜか“漫画映画っぽい”魅力的な映画として完成した。そこにこの映画のユニークな立ち位置がある。

その理由はまず第一に、この企画が日本テレビの奥田誠治プロデューサーが神山健治監督に「自分の娘に観せたい映画を作ったらどうだろう」と声をかけたことから始まったという、その発端にあるだろう。だから映画は向日性の希望を感じさせる映画に仕上がることになった。
また、ココネを中心とした家族という狭い範囲を描きながら、そこに「夢」という無意識の領域を組み合わせた趣向も大きく左右しているはずだ。これによって生臭くなりそうな現実の物語が一種の“おとぎ話=神話”へと読み替えられることになった。
ちなみに“漫画映画っぽい”要素というなら、「一生懸命なあまり滑稽に見えてしまう悪役」もちゃんと登場している。
こうしてみると『ひるね姫』は、“漫画映画っぽい”ものを作ろうとしたというのではなく、「娘に見せたい映画」を作ろうと苦闘していく過程で、無意識のうちに“漫画映画”を発明してしまった映画だということができる。この映画のユニークさとはつまりそういうことなのだ。

2016年に話題を呼んだ『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』は、いずれも恋愛の要素があり、残酷な暴力も描かれていた。その点で“漫画映画っぽい”ところからは距離がある作品だった。
ところが2016年末東映アニメーションが発表した映画『ポッピンQ』は同社の伝統を受け継ぐ“漫画映画っぽい”作品であったし、5月に公開を控えている湯浅政明監督の映画『夜明け告げるルーの歌』も、中学生を主人公にしつつも“漫画映画っぽい”切り口で進みそうな気配がある。

ひろく観客を楽しませるエンターテインメントのあり方として“漫画映画”っぽい路線が追求されるのは極めて自然だ。『ひるね姫』をはじめとして、2017年は“漫画映画”の可能性に注目することになる1年になるかもしれない。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。  

《藤津亮太》

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