宮崎監督の下でアニメーターとして初期6話分の作業に携わった友永和秀さんに当時の話を聞いた。
[取材・構成:藤津亮太、沖本茂義]
『名探偵ホームズ 』Blu-rayBOX
https://www.bandaivisual.co.jp/cont/item/BCXA-0908
■ 近藤さんの絵にはかなわない
―友永さんはテレコム(・アニメーションフィルム)の一員として『名探偵ホームズ』の立ち上げから携わられています。当時の雰囲気を教えてください。
友永和秀(以下、友永)
もともとイタリアの持ちこみ企画で、向こうのデザインはグラフィックといいますか、『ピンク・パンサー』のような平面的なデザインでした。ところが、宮崎さんはそれを気に入らなかった。漫画映画っぽい絵柄で、平面的的ではなく現実的な空間を描きたいと。先方と相当揉めましたけどね(笑)。
でもこちらとしては宮崎さんの準備だからそうなるだろうと思っていたところがあって。それで宮崎さんと近藤(喜文)さんがやりとりをしながらキャラクターを作り上げていくのを見つつ、そのデザインを借りてイメージボードを描くところから作業を始めました。
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―イメージボードはBD-BOXにも収録されていますが、かなりの数描かれています。
友永
当時のロンドンの写真というのがなかなか手に入らなかったものですから、ブリティッシュ・カウンシル(英国の公的な国際交流機関)に行っていろんな資料をコピーしてきました。そういう資料を見ながら、こんなシーンがあったら面白いだろうと想像していろいろ描いていったんです。宮崎さん、近藤さん、それから富沢(信雄)さん、丹内(司)さん、それに僕で描きました。
原作だと、ホームズが薬物を使うシーンもありますよね。アニメも最初はもうちょっとシリアスで、貧富の差も含めた当時のイギリスの光と影を盛り込もうという方向性もあったんです。僕もそういう部分があるといいなと思いながら準備をしていました。最終的には、もっとあっけらかんとした感じになりましたが。
―近藤さんは当時、どんな感じで『ホームズ』に携わられていたのでしょうか。
友永
どういう作品にすればよいのか、そういう宮崎さんの話には、近藤さんが付き合っていた印象があります。近藤さんの影響やサジェッションも大きかったのではないかと思いますね。近藤さんは、『赤毛のアン』などの印象が強い方も多いと思うんですが、ギャグっぽいも作画もすごくうまく、描くスタイルにとても幅がある方でした。
その一方で、児童文学や社会問題にも関心を持っていた。そのあたりを切り口に宮崎さんとキャッチボールをしていたんじゃないでしょうか。……近藤さんの絵は、線が多いわけではないんですけれど、すごく現実感がある。キャラ表を見てもちゃんと体のふくらんでいる感じがある。そこにそういうものがあるという存在感があるんです。それは単なる絵の巧さというだけではないです。そこに何かがある。それが何かはわからないんですが、そこはかなわないなと思わされるところです。
■ 『コナン』『カリオストロの城』を経てテレコムに
―トッドとスマイリーは、近藤(喜文)さんと友永さんがモデルだと言われていますね。
―友永
そういう話が流布しているようですね(笑)。宮崎さんはよく周りの人をキャラクターに取り入れていました。たとえば『ルパン三世 カリオストロの城』でルパンたちがスパゲッティ食べている時にやってくるウエィトレス、あの人にもモデルがいるんですよ。『ホームズ』のころの僕はもう少し小太りだったので、宮崎さんからするとキャラの対比が面白かったんでしょうね。
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―宮崎さんとの関わりは『未来少年コナン』からでしょうか。
―友永
そうですね。それまではオープロダクションに所属して東映(動画。現・東映アニメーション)のロボットアニメなどの原画をずっとやっていました。ロボットものとはいいつつ、キャラクターデザイン・作画監督などをやられていた小松原(一男)さんも昔のAプロダクションの影響を受けていたりするので、脇のキャラクターには結構、Aプロっぽい要素を取り入れたりしていたんです。だからメカシーンを描く一方で、そういうキャラについてはAプロ的な動きを真似したりしていたんです。
一方、実際にAプロにいた宮崎さんや大塚(康生)さんの仕事についてはずっと外から眺めているだけでした。それでオープロが『コナン』をやるときに、「手伝わせてもらえませんか」とお願いして一緒に仕事をさせてもらったんです。
―なるほど。そしてその後、テレコムで『カリオストロの城』に参加されます。
―友永
『カリオストロの城』のときは、まだオープロ所属で出向でした。テレコムはもともと、東京ムービーの藤岡(豊)社長が、「日本のTVのような小さいビジネスではなく、アメリカに大きく打って出るんだ」と設立した会社です。最初にテレコム育成を担当したのが月岡貞夫さんで、「テレビのアニメの影響を受けたやつはいらない」ということで、アニメーターの育て方も特殊だったんです、だから『コナン』の後で大塚さんが月岡さんの後を引き継いだときは、自分たちは長編アニメーターという自尊心はあっても、実戦に耐えうる原画マンがほとんどいないという状況だったんです。
そこで現場の叩き上げのスタッフが必要ということで、大塚さんが日本アニメーションにいた富沢さんをはじめ、Aプロ、シンエイ動画、オープロなどから、『コナン』で頼りになった人をどんどん誘ったんです。僕もそのときに誘われてテレコムに出向して、その後、テレコム所属になりました。