「映画ちいかわ」昔ばなし形式から逸脱した“刺激”― 「今日の日はさようなら」が観客に意識させる物語の“裂け目”【藤津亮太のアニメの門V 133回】 | アニメ!アニメ!

「映画ちいかわ」昔ばなし形式から逸脱した“刺激”― 「今日の日はさようなら」が観客に意識させる物語の“裂け目”【藤津亮太のアニメの門V 133回】

イラストレーターのナガノがX(旧Twitter)に投稿している人気マンガ『ちいかわ』が劇場アニメ化。『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』が7月24日より公開中だ。公開14日間で観客動員数350万人、興収50億円を突破。ヒットを飛ばす物語の“ひみつ”とは何なのか?

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『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、第一に「歌」の映画である。原作はマンガだから当然、そこに音を響かせることはできない。映画はまず、舞台となる島の魅力を島民が歌う歌――その歌詞はあまりに一面的で、詐欺といえるほど表層的である――で始まり、続いて島民を襲うセイレーンの美しくもおそろしい歌声を響かせ、それに対抗するように、うさぎの言葉にならないラップが繰り出される。さらに、裏主題ともいうべき「今日の日はさようなら」は、無垢さを強調した児童合唱で奏でられ、その無垢さが、観客の意識をこの映画の抱えている裂け目へと向けさせる。

本作は、原作第8巻まるまる一冊を費やして語られた長編エピソードの映画化である。
ある日、ちいかわたちは1枚のチラシを手に入れる。そのチラシには「島でのカンタンな討伐で100倍の報酬をもらおう」と書かれていた。害をなす不思議な生き物を対峙する「討伐」はちいかわたちの大事な収入源だから、これはとても魅力的な誘いだ。しかも、島に来れば、おいしい食べ物も実質無料とある。さっそく島に向かったちいかわたちは、島民から歓待を受ける。だが、その島には島民を襲って食べる巨大なセイレーンがいた。

セイレーンは2匹の人魚を従えている。だがこれは、3匹いた人魚のうち1匹が何者かに食べられてしまったからだった。そのためセイレーンは、犯人を見つけるまで島民を襲い続けているのだった。ちいかわたちを招いた“カンタン”な討伐とは、このセイレーンを倒すことだった……。

ストーリーは原作と同じ。しかしアニメ化すると、必然的にそこには「空間」の創出が求められ、ライティングも意識せざるを得なくなる。また、セリフや演技の「間」という「時間」の問題も発生する。後者には、先行するTVシリーズというお手本――制作会社やスタッフは映画と異なるが――があるものの、前者については、原作のシンプルな雰囲気を守りつつ、映画館のスクリーンサイズに耐える絵作りが必要となる。本作は、この難問を見事にクリアして見応えがある。

そして、映像化に伴って「音」という要素も加わるわけだが、先述のとおり、本作はその「音」を存分に活かすことで、映画版としての意味をしっかり獲得していた。

では、「今日の日はさようなら」が観客に意識させる裂け目とは、どのようなものか。
まず前提として、『ちいかわ』の世界が「昔ばなし」の世界と似ているということを確認しよう。このことを直感的に感じている人も多いだろうが、ここでは印象で語ることを慎重に避け、『昔話の語法』(小澤俊夫著/福音館書店刊)で紹介されているマックス・リュティの様式理論を下敷きにしてみたい。

口承文学研究者のマックス・リュティは昔ばなしを研究し、その内容ではなく、語りの特徴を次の5つにまとめた。それが「一次元性」「平面性」「抽象的様式」「孤立と普遍的連関」「純化と含世界性」という5つのポイントである。

「一次元性」とは、「現実世界と超自然世界のあいだに境界が存在しないこと」。シリーズのほうでも、魔女や不思議な杖が登場しても、ちいかわたちは驚きつつ、それを「そういうもの」として受け入れている。映画では、「伝説の生き物図鑑」にある「人魚の『肉』を食べると……永遠の命が手に入るってうわさじゃ」という記述と、それが事実であると裏付ける描写がこの「一次元性」にあたる。

「平面性」とは、登場するキャラクターや描かれる世界に、肉体的・精神的な奥行きがないこと。キャラクターに関しては、心理的な綾を持たないフラットキャラクターとして扱われている、という言い方もできるだろう。ちいかわたちの内面は、基本的に見てわかるものとして描かれており、成長などの内面的変化をする存在でもない。世界観に関しても、現実の消費社会と同じようなもの――映画でいえば、焼きそばやカレールー、しるこサンドなど――が普通に出てくるが、そこに何か世界観的な理由付けがあるわけではない。それは「そういうもの」として、表層的に存在しているだけなのである。

「抽象的様式」とは、昔ばなしにおいて、例えば「森」は、物語が必要とする範囲で「森」としてだけ語られ、その森の様子が具象として描写されることはない、ということを指す。これは『ちいかわ』の映像スタイルを見ればよくわかる。逆にいうと、先述した映画化にあたってのポイントは、この抽象的様式を崩さないまま、大画面に対応しなければならない難しさ、と言い直せる。

「孤立と普遍的連関」の「孤立」とは、主人公が先祖の存在などを背景にして存在していないことを指す。この「孤立」は主人公だけでなく、登場する小道具が「高価」だったり「神秘的」だったりと「極端な存在」であることも含むという。また、繰り返される出来事が登場する場合、前の出来事がなかったかのように繰り返されることも「孤立」の範囲で扱われる。

そして主人公は「孤立」しているからこそ、目の前の状況に対応しているうちに、真に本質的なものに到達するという。「普遍的連関」とはこのことである。映画の場合、ちいかわが「人魚を食べたこと」の証拠として、人魚のウロコを見つけてしまうこと、そして一人だけその犯人が誰なのかを目撃してしまうこと――探り当てるのではなく、あくまで偶然の産物として知ってしまうのである――がこれにあたる。

「純化と含世界性」は、昔ばなしで語られる事物が抽象化され、形式的なものになっていて――これが「純化」である――、現実や現実と強く紐付けられたリアリズム的な描写とは直接結びつかないということ。そして、そうした純化によって形式化することによってそれが、世界全体、人間存在のあらゆる要素を反映することができる、ということが「含世界性」の意味である。これは『ちいかわ』の登場人物が固有の名前を持たず、作中の「討伐」も「草むしり」もリアリズムとは遠い一方で、だからこそ、現実世界のなぞらえとしての読解を招いていることにも通じるだろう。

このように、『ちいかわ』の世界は、映画も含め、昔ばなしの語りと近いところにある。しかし映画が刺激的なのは、その枠からちょっとはみ出しているところがあるからだ。

例えば、「平面性」のところで触れたちいかわの描き方だが、映画の終盤は明らかに「平面性」から逸脱した描写が登場する。

ちいかわは、人魚を食べた犯人が誰かということに、偶然気付いてしまう。映画では、犯人が人魚を食べるに至った必然を回想形式で描き、ちいかわの理解が間違っていないことを裏付ける。ポイントは、この真実をちいかわが語らないことだ。どうしてちいかわは語らなかったのか。ここを考えるとき、視聴者はちいかわの内面をどうしても想像せざるを得ない。しかし、その内面が具体的に明らかにされることはない。「内面を想像せざるを得ないが、内面は明かされない」という語りによって、本作はぎりぎりちいかわの平面性を担保しつつ、同時に、観客は「犯人の動機」と「その解決」について考えざるをえなくなるように組み立てられているのである。

この「内面を想像せざるを得ないが、内面は明かされない」という語りの構造を強化しているのが、「今日の日はさようなら」なのである。シンプルな言葉で友情を歌うこの歌の歌詞が、本作の物語においては、別の意味を帯びてくる。
 

「いつまでも」が永遠の命を想起させ、「自由」が永遠に縛られて失われるものを、「信じあう」がそんなことでは乗り越えられない残酷な偶然を、どうしても想起させてしまう。こんな思いになるのは、観客が特権的な存在として事件の全貌を知っているからにほかならないのだが、作中で観客に近い情報を知っているのは唯一ちいかわだけである。つまり、「今日の日はさようなら」を聞いて、今回の出来事について思いをはせるとき、観客はちいかわの内面を想像せざるを得なくなる。

こうして本作は観客に対し、「昔ばなし」の語りの構造を踏み越え、登場人物の内面にドラマがあるのではないかと感じさせることになる。ここに形式的である豊かさを持つ「昔ばなし」の世界から、人間の内面を描く近代的な作品への逸脱があり、その相転移こそが、本作を印象深い作品にしているポイントである。

【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。


《藤津亮太》

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