「花緑青が明ける日に」幻の花火<シュハリ>を巡って描かれる、狭く広い“宇宙の空間”―【藤津亮太のアニメの門V 128回】 | アニメ!アニメ!

「花緑青が明ける日に」幻の花火<シュハリ>を巡って描かれる、狭く広い“宇宙の空間”―【藤津亮太のアニメの門V 128回】

第76回ベルリン国際映画祭コンペティション部門にも出品された日本画家・四宮義俊の長編アニメデビュー作『花緑青が明ける日に』。長編監督デビュー作がベルリン国際映画祭コンペティション部門に選出されるのは、日本のアニメーションとしては初となる。

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時間はたった1日。場所は入江の奥にある古い民家。『花緑青が明ける日に』はこの小さく区切られた時間と空間の中に、とても大きな世界を凝縮して表現した映画だ。顕微鏡で覗き込むように一点を注視することで、その先に800年前の歴史も、宇宙のあり方も浮かび上がってくる。

だから映画のあらすじで示される3人の若者のドラマだけを見ていても、映画の全体像には迫ることは難しい。彼らの葛藤は、その周囲に結晶を生じさせる「核」のようなものなのだ。その核の周囲に、世界そのものがゆっくりと立ち上がってくるのである。

物語はまず冒頭でメインキャラクター3人の高校時代の様子を描く。老舗の花火工場・帯刀煙火店は、町の再開発のための立ち退きを迫られていた。しかし婿養子で妻亡き後、幻の花火「シュハリ」を完成させようとする榮太郎は、なかなか立ち退きには応じない。兄の千太郎はそんな父を横目に、市役所への就職を決める。一方、弟の敬太郎は立ち退きに対して抵抗している。そして彼らの仲の良い従姉妹、式守カオルは大学進学で地元を離れる道を選んでいた。
 

作中のその後の点描で、3人は花火の仕事に興味を持っており、資格を取った敬太郎とカオルは、「シュハリ」を打ち上げようとして事故を起こしていたことも明かされる。
 

そして4年後。榮太郎は失踪し、敬太郎はひとりで家に閉じこもって、ひとりで「シュハリ」の完成に取り組んでいた。そんなある夏の日、東京のカオルのところに千太郎がやってくる。ついに帯刀煙火店が、強制代執行により取り壊される日が来たのだ。千太郎は敬太郎を説得してもらおうとカオルを懐かしい我が家へと連れていく。
 

4年ぶりに帯刀煙火店に足を踏み入れるカオル。そのときから、忘れようとしていた時間がゆっくりと蘇っていく。そして敬太郎とカオルは、シュハリの秘密をとき、なんとか打ち上げられないかと考えるようになる。そこに巻き込まれていく千太郎。そして夜が明け、台風が接近する中、強制代執行の朝が来る。
 

このあらすじからもわかるとおり、本作はまず3人が、高校時代に不完全燃焼のまま終えてしまったシュハリというものに決着をつけるという物語である。そういう過去を封印して現実的に生きようとする千太郎、逆にそのことに執着する敬太郎。東京で過去を忘れようとして、でも忘れられなかったカオル。この3人がそれぞれの思いを胸に、「シュハリ」を打ち上げようとする。つまりそれはそのまま彼らの子ども時代の終わりを描くことでもある。
 

ここで象徴的な役割を果たすのは「シュハリ」そのもの以上に、彼らの育った家である。古い写真がそのまま飾られ、まるで時間の止まったような空間。千太郎とカオルは、一度この家を出た人間だから、この家をずっとそのままにはできないことはわかっている。しかし敬太郎はそうではない。だから、一旦はシュハリを打ち上げることで同意しつつも、家の扱いで衝突してしまう。敬太郎がいたからこそ「帰ってこれる場所」として家が残っていたけれど、しかし、それは敬太郎が世間を拒否して繭の中に留まり続けたこととの裏腹である。啓太郎が一番落ち込んだ瞬間に、水槽の中にまるで胎児のように入り込んでいるのは、彼の精神状態をよく表している。だからこそ彼に投げかけられた千太郎の「ここをお前だけのものにしないでくれよ」というセリフ、あるいはカオルの「どんなことにだって終わりはくるよ。問題は終わらせ方だよ」というセリフが効いてくる。

そしてシュハリを打ち上げるために、予定とは違い、家の中に置かれた打ち上げ筒を使わなくなってしまった瞬間、カオルが「家か花火か、今選んで」と敬太郎に迫ることになる。

この子ども時代の決着という極めてパーソナルな骨格に、長い時間と広い空間が肉付けされている。
 

作中で幾度か、彼らは800年前の水軍の末裔である、ということが語られる。これは歴史的真実というより、そういう「伝説」が精神的なアイデンティティの一部を形成しているというふうにとらえたほうがいいだろう。この水軍は、敗れるときにたった一発の狼煙=花火で、見事な撤退を行ったと伝えられ、それが現代の花火に繋がっているのだという。
 

映画の冒頭、高校時代のカオルが、トンネルを抜けて入江に出ると、そこに水軍の船を幻視するカットがある。800年前の昔、のちに滅びたといわれても、それはこの海や花火の伝統といったものを媒介にして、現代にどこ痕跡を残しているという感覚が、映画の最初から提示されているのだ。だから水軍の末裔という伝説をアイデンティティの一部にする人間がいれば、それは「終わったけれど終わっていない」のである。
 

この800年の長い時間が導入されることで、打ち上げられたシュハリの意味も広くなる。花火は一瞬で消えてしまうもの。しかし、千太郎のインフルエンサーとしての働きもあって、多くのなんの関係ない人もシュハリを目にした。さらにネットの上にも動画という形で記録が残ることになった。記憶と記録に残っていれば、三浦の、そして帯刀煙火店の最後の花火であっても、「終わったけれど終わらないこと」になる。水軍のエピソードを入れたことで、彼らの子供時代のエピソードだけにとどまらず、「終わったけれど終わっていない」ということの積み重ねで世界が出来上がっていることが示唆されているのだ。
 

では空間のほうはどのように肉付けされているのか。それはシュハリの正体と深く関係している。シュハリは途中まで、花緑青を使った花火であろうと予想されている。しかしその実態はそれだけにとどまらず、菊玉と呼ばれる光跡を残す花火で、それを凪いだ入江の海の上に打ち上げることで「球」を表現するというものだった。さらにそこにはフォボナッチ数列による螺旋という、自然界に潜む黄金比へと近づく数学的法則性も仕込まれており、そこに抽象化された形で「宇宙のあり方」を空間的に表現しているのである。つまり狭い家で作られたシュハリが、入江の奥という狭い空間の中に、宇宙という巨大な空間を生み出したのだ。

ポイントはこの宇宙が一瞬で消えていくところにある。作中でシュハリが作り出した「球」は繭にたとえられるが、それによって「家が壊れて、外の世界へ出ていくこと」という時間の物語で語られていた巣立ちのエピソードと、3人をとらえていたシュハリという繭が消えていくことが、重ね合わされて、物語を終幕へと導くのである。
このように本作は「終わったように見えて何か残るものがある」ということと、「繭のようなミクロコスモスは美しいが、それはずっと続くものではない」という形で、世界の本質を示して締めくくられる。

色と質感のコントロールによる背景とキャラクターの一体感、ストップモーションの導入やマルチプレーンでアナログ素材を撮影するなど、本作の制作スタイルそのものが、実験というよりも、アニメーションという手法を通じて「世界のあり方」を表現するためだと考えると納得できる。このように本作は狭いようで深く広い。
映画のラスト、車の後部座席に横たわる敬太郎の姿は、まるで生まれたばかりの子どものように見える。やがて目覚めた彼は、どんな世界を目にするのだろうか。

【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。


《藤津亮太》

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