『SonnyBoy』は何を描いたのか―ルーティンから一歩踏み出した先にあるもの【藤津亮太のアニメの門V 第76回】 | アニメ!アニメ!

『SonnyBoy』は何を描いたのか―ルーティンから一歩踏み出した先にあるもの【藤津亮太のアニメの門V 第76回】

【ネタバレあり】アニメ『SonnyBoy』が表現する「その場所の空気感」。そして本編を通して描いたものとは。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※本コラムは、アニメ『SonnyBoy』のネタバレを含んでいます。

『SonnyBoy』の話になるとどうしても、寓話のような各話のエピソードをどう読み解くかという点に話題が集中してしまう。だから、まず映像の話から始めたい。

『SonnyBoy』の最終回、第12話は、2年間の“漂流”を終えた後、主人公・長良が現実で高校生活を送っている姿が描かれる。それまでの“漂流”で描かれた異世界以上に、第12話の現実の風景は印象的だった。

本作の美術は、基本的に輪郭線を入れず(輪郭線がないと絵がぼやけるポイントにだけ入っている)、“筆”の感じを残した塗り方をしている。描きこみで情報量が多い美術や、フォトリアルなタッチの美術とは大きく方向性が異なる。その空間を写し取るのではなく、「その場所の空気感」を描いているのが本作の美術なのだ。だからアップの時に背景がボケている場合も、撮影でボカすのではなく、あらかじめボケた絵を描いている。また車のような大道具だけでなく、ロングショットの人物も美術で描かれていることもある。

雨のシーンや夜のシーンが多く、それが美術のスタイルとマッチして、少しひんやりしたその場の「空気感」がよく伝わってきた。個人的には長良と瑞穂が会話をした公園墓地の風景、赤が点灯している歩行者信号のアップ(赤のLEDが本作らしく筆のタッチを生かして点々と描かれている)、ニーショットの希の向こうに見える、ピントのあっていない雨に濡れた夜の町並み、などのカットが印象に残った。

このような空気感を感じさせる背景と歩調を合わせるように、キャラクターデザインも情報量は決して多くなく、むしろ風景に馴染むシンプルさで描かれている。目も決して大きくなく、漫画的に崩れるわけでもないので、“温度感”もさほど高くない。ロングで顔のパーツが省略されることも多い。演出的にも少し引いた目線で描かれており、キャラクターが前面に出るのではなく、「世界の中の登場人物」という画面を目指すように背景とキャラクターの調和が図られている。

本作のように、フォトリアルではなく絵であることを前面に打ち出しつつも、グラフィックな方向ではなく、リアリティ(もっともらしさ)を伝えるというスタイルは、もっと様々な作品で追求されてもいいと思う。そしてこの世界(美術)の中の登場人物という形でまとめられたビジュアルは、本作の主題とよくマッチしていた。

では『SonnyBoy』は何を描いたのか。

本作は中学3年生の夏休みに、学校ごと異世界に“漂流”してしまった長良とクラスメイトたちを描く。彼らは漂流先で、それぞれに特別な能力を発現させる。設定だけ聞くと小説『蝿の王』や漫画『漂流教室』が想起されるが、本作の“漂流”はそのような「サバイバル」や「権力闘争」には結びつかない。本作が描いたのは「世界のルール」と「自分の力で世界を選択する」という2つをめぐる物語である。

シリーズ前半は、漂流した先のハテノ島で現実への帰還方法を模索しつつ、様々な事件とその解決が描かれる。本作の中でこの事件の解決は「この世界のルールの発見」という形で表現される。ポイントは、ルールは発見・活用することはできても、ルールそのものを書き換えるということはできないという点だ。これは本作でしばしば繰り返される「世界は変えることができない」という台詞と結びついている。

「世界のルールは変えられない」ということは、「みんなが知らないルールを知っている存在」や「その世界で便利な能力を持っている存在」が有利になる。シリーズ前半で力を持っている明星(ほし)、神の如き存在である“ヴォイス”の声を聞くことのできる生徒で「みんなが知らないルールを知っている存在」に相当する。そして後半のキーパーソンである朝風は、重力を扱う能力を手に入れたことで周囲から急に頼られるような存在になった人物で「その世界で便利な能力を持っている存在」に相当する。

異世界を舞台に象徴的に描かれているが、明星と朝風が支配的に振る舞う理由は、実は普通の現実と対して変わらない

例えば明星は、現実世界でも生徒会長選挙の結果をこっそり変えたり、真実を知って匿名掲示板に嫌がらせを投稿する瑞穂の存在を開示請求で明らかにするなど、「ルールを操ることができる」という場所に自分を置いている。だから異世界で明星は、みんなを救ってこの世界の救世主になろうとする。だがそれは、“ヴォイス”―彼は学校の校長でもあった―の枠組みの外には出られない、いいなりといいうことでもある。

第6話で長良たちは、漂流している自分たちは“コピー”であり、現実世界にはもうひとりの自分たちが存在していることを知る。漂流している長良たちは、現実から分岐した、確率的な可能性の存在であり、唯一無二の存在ではないのだ。その事実が明らかになった時点で、“救世主”たろうとしていた明星は物語の表舞台から降りることになる。

そして第6話は長良にとっても転機であった。自分たちが可能性の一つであるという認識を通じて、「この世界の外側」を意識するようになるのだ。例えば第7話で、長良がまずする行動は「観察キットの中で巣を作るアリ」を外へと逃がすということだった。

その後、長良は人間がまるでアリのように石を運んで、天国に到達し続けるために塔を建設し続ける世界へと紛れ込む。そこで出会った二つ星という人物は、やはり長良と同じ漂流者で、200年もの間塔を作っているという。長良と二つ星は、伝説の「流れ星の見られる洞窟」を探しに出る。そこで二つ星は次のようなことを言う。

大事なのは探したという事実。くだらないことをどこまで信じられるかが自分たちにとっては重要である。塔の建設も同じ。誰もいつか天国にいけるなんて信じていない。偽物の希望でもそれを目指していたほうが幸せなんだ。

二つ星はこの世界から出ることを考えてはいない。だからこそありえない伝説や希望にすがるのである。長良はこの言葉に反発する。そして長良は「もう逃げない」と誓う。元のハテノ島に帰還した長良は、朝風が自分たちと行動をともにするように誘いにきても、「それでも僕は僕の道を進む」とそれを断る。それまでの、なにをやっても変わらないという姿勢だった長良とは変わっている。

続く第8話は、犬のやまびこの回想だ。やまびこも5000年以上にわたってさまよっている漂流者だった。かつては人間で、こだまという女性リーダーがいる集団に流れ着いのだった。やがてそこで身体が赤い結晶になる疫病が流行し、集団は全滅する。

疫病を集団にもたらしたと思われる男は、真実を語る。赤い結晶は、別の世界に原因がある心の傷が具体化したもの。だからこの世界の外に出て、原因を解決することが疫病の解決方法だった。この世界はやまびこが、自分の殻に閉じこもって作った世界だから、やまびこ自身がそうすべきだった。そうすればこだまを救えたかもしれないのに、と。

それを言われたやまびこは、こだまが最後の瞬間にやまびこに「君はここから飛びだつんだ。ここは本当の世界じゃない」と告げたことを思い出す。

第7話、第8話は「外へ出る選択」をしない/しなかった人間のエピソードが続き、それが長良が次第に「自分の道」が外へと向かい、「世界を改めて選択すること」にあることを見定めていくことに繋がる仕掛けになっている。

こうしてみると、希の「1点を指し示す光」が見えるという「コンパス」の能力がどういう意味合いなのかも見えてくる。希は、それを「出口」であると言う。当初はそれは「帰還の道」というニュアンスで示されていたが、終盤にくると「世界を選ぶために、その外に出る道」を指し示す力だったと考えたほうがわかりやすい。

希はその力で、「学校の外」にあるハテノ島を感知したし、第6話では現実の学校の風景に「光」を感じていた。だから第7話、第8話を経た第9話で、長良は「僕は、君のおかげで変われたから。君が光を見せてくれたから」と語りかけるのも、そういう意味があると解釈できる。

第9話では、もうひとりの重要人物である瑞穂の「誰かにすがってもしょうがないんだ。自分でなんとかするしかない」と叫びも描かれ、この話で長良、希、瑞穂の「この世界の外へ出る」というベクトルは明確に定まることになる。

そして希が好きな朝風と希の死を描いた第10話を経て、第11話でついに長良と瑞穂は、元の世界を目指して、異世界の外へと飛び出していく。そこに2人の人物が現れる。

ひとりは朝風。彼は「知らなけれればそれで済んだ。与えられたもので十分じゃないか。ここも元の世界も変わらない」と言う。それに対し長良は「僕らは自分で手に入れたいんだ」と答える。この答えからも、別の人生を歩いているもうひとりの自分がいる世界に「帰る」ことが目的ではなく、この旅立ちは「今いる世界の外に出る」ということが主目的であることがわかる。

そしてもうひとりは“ヴォイス”だ。彼は「ここから出てはいけない」という。長良はそれに対して「出られないと言わないんですね」と反論して歩みを止めることはない。ここでも“ヴォイス”が絶対という「ルールの世界」の外へと飛び出していくという意味合いが強調される。

「世界のルールは変えられない」。そして二つ星ややまびこのように、その中で生きる幸福もある。本作はその幸福を偽物だとは否定はしない。けれど「そのルールに縛られた世界の外へと出て、世界を選び直す自由」がないものにされることにもまた抗っている。世界は変えられないが、世界そのものを選ぶことはできるはずだ。

この「世界を選ぶこと」というのは単にSFやファンタジーの世界に関することではない。自分を取り囲んでいる、一番小さな世界は自分の認識そのものだ。あるいは本作風に「観察者によって世界が確定する」というのなら、「世界の外に出るには観察者の認識を変える」ということが重要になるのだ。

これを端的に現しているのが長良のトリに対する姿勢だ。第2話で描かれたように、夏休みのある日、長良は校門の前で死にかけたトリを見かけるが、逡巡の後、通り過ぎてしまう。それは「ここで自分が助けようとしても、このトリの運命は変わらない」と考えていたからだ。

これに対し第12話の長良は、親鳥がいないらしいツバメの巣を気にかけ、ステップを持ってきてその様子を気にかける。それは2年間の漂流の中で長良の中に起きた変化の結果であり、漂流の間に希と交わした約束の実行でもある。それまでは気にもとめなかったトリを気にかけた瞬間、長良は“別の世界”へと足を踏み入れたのだ。この変化は、作品を見ている私達とも決して無関係ではない。誰でも、ルーティンの発想をやめてその瞬間一歩踏み出せば、世界を選び直すことができると告げている。

この2つのシーンの間にある長良の変化を、映像のエンターテインメントとして描き出したのが『SonnyBoy』という作品なのだ。

《藤津亮太》

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