今敏作品における「虚構と現実」の関係性とは? 「千年女優」ほか劇場作から探る【藤津亮太のアニメの門V 第62回】 | アニメ!アニメ!

今敏作品における「虚構と現実」の関係性とは? 「千年女優」ほか劇場作から探る【藤津亮太のアニメの門V 第62回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第62回目は、没後10年を迎えるアニメーション監督・今敏の作品の特性を、その映画作品をヒントに改めて考える。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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今敏監督が亡くなって今年で10年が経った。

先日発売された『ユリイカ』の今敏監督特集では、編集部からの依頼でその制作スタイルについて寄稿をしたので、『アニメの門V』では今敏作品の作品の特性について、その映画作品をヒントに改めて考えることにしたい(なおTVシリーズ『妄想代理人』は各話ごとに語りのスタイルが多様なので、詳述すると煩雑になるためここではおいておく)。

今敏監督の作品はしばしば「虚構と現実」というキーワードで語られる。
確かにそれは間違ってはいないのだが、表現手段がアニメであり、今敏監督が卓越した描き手であったことを考えると、「虚構と現実」というキーワードはもっと複雑な要素を孕んでいるように思う。
そもそも「絵」でしかないアニメの画面を、「現実」と認識するということは、どういうことなのか。

土居伸彰の『個人的なハーモニーノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)を読むと、アニメーション作家のノルシュテインが、アニメーションのとらえ方として「抽象性」「物質性」という2つの要素をあげているという、くだりがある。

ノルシュテインの意見を噛み砕いて説明すると、「物質性」とは、セルアニメというのは「セルに転写されたカーボンの連なり」であり「区切られた範囲を塗りつぶしたセル絵の具」でしかないということだ。
これはつまり「絵」は「絵」でしかないということにも通じており、その点で制作工程がデジタル化しても本質には変わりはない。

そして、この物質性を通じて、鑑賞者に捉えさせる“何か”が存在する。それが「抽象性」で、ノルシュテインはそれを「メタファー」とも呼んでいるという。
同書では、この関係を、インクのシミでしかない「文字」が、その意味することによって強いイメージを喚起することにも例えている。

しかしメジャー(映画やTV)で流通する大規模産業化したアニメは、この「物質性」と「抽象性」の関係を意識させないことで成り立っている。
「(ディズニーで)重ねられていた努力とは、キャラクターをグラフィックとして認識させず、キャラクター自身にもそういう意識を持たせないようにするものであった。
そうすることで、アニメーションの世界を作り物としてではなく、私たちの生きる世界のように――もしくはそれ以上に――自然なものとして没入されることができる。そのために、抽象性と物質性のあいだのズレは意識されないようになる。」(同書)。

つまり産業化された多くのアニメは、「絵」として描かれた椅子が、現実の椅子と同等のものとして、観客に自動的に受け取られることを目指して作られているということだ。
キャラクターも同様で、観客は「人間の絵」をひとりの「人間」として受け止め、アニメはそれを前提とすることで、ドラマを語ることが可能になった。

では「抽象性」はまったく機能していないかというと、そんなことはない。
「抽象性」はこの時、「描かれた現実」を本物らしく感じさせる一種のアウラという形で働いている。日本のアニメをめぐる一連の言葉遣いでは、この時の「抽象性=アウラ」「“感じ”が出ている」という言葉で言い表されている。
これは「現実」と観客に認識させるためには、現実模倣的である以上に、そのものの雰囲気をうまくとらえることに意味があるということでもある。

例えば、高畑勲監督はアニメのキャラクターの演技を落語の所作(そばを啜る、酒を飲む等)に例えたが、それの意味するところは「実際にはそうではなくても、“感じ”がよく伝わってくる演技」が重要ということである。
「描かれた現実」はこの“感じ”というアウラをまとうことで、観客に「リアリティのある現実」としてよく認知されることになるのだ。

ずいぶんと遠回りをしたが、「絵」が「現実」と感じられる以上のようなメカニズムを意識すると、「虚構と現実」というモチーフもまた違って見えてくる。

今敏監督にとって「虚構と現実」というのは、対になる対照的な概念ではなく、どちらも「描かれたもの」という点では同質であり、そこを分けるのは「そこに描かれているもの」だけだったのではないだろうか。
また今敏監督のインタビューや著書などを読むと、今敏監督が画面を作るときに実景を引き写すことはほとんどなく、画面には「らしさ=抽象性」のほうを強く求めていたことがわかる。

つまり観客が「本物みたい」と感じるリアリティ溢れた画面が、それを描いた今敏監督にとっては「単なる絵」であり、このギャップこそが今敏作品を支えている“仕掛け”を生んでいるのである。

例えば『PERFECT BLUE』では、劇中のドラマの1シーンと現実が編集でつなぎ合わされることで、あえて一瞬虚実をわからなくするという演出が出てくる。
これは精神のバランスを崩し始めた主人公・未麻の意識の中で「虚実」が曖昧になっていくということを端的に表現するための仕掛けだが、この時、ドラマの1シーンと現実は、置かれた文脈が異なるだけで「絵で描かれた現実」であるという意味合いは同じで変わらない。

むしろアニメならではの虚実の混淆といえるシーンはクライマックスにある。
そこでは未麻、未麻が見ている幻影の未麻、そして事件の鍵を握る“もうひとりの未麻”という“3人”が現れる。
この3人は、未麻ともう“ひとりの未麻”はともに現実の存在で、この2人を媒介する存在として幻影の未麻がいるという関係性にある。

しかしこの時、幻影の未麻もまた「幻影なりのリアリティ」を持ってそこに存在している。
ここでは3人の未麻がそれぞれ違う位相にいる存在でありながら、「描かれた現実」という点で同じ地平の上にいて、皆それぞれに“未麻”であることを主張している。
この3人が並び立つ構図こそ、アニメならではの「虚構と現実」の混淆を表現しており、しかも「私は誰?」という本作を貫くテーマとも深く結びついているのだ。

企画段階から「だまし絵のような」映画を目指した映画第2作『千年女優』、夢と現実が入り交じる映画第4作『パプリカ』の構図は、もっとわかりやすい。

『千年女優』の場合は、引退した老女優の語る「実際の記憶」も「出演した映画の内容」もともに「描かれた現実」であることにはかわりがなく、だからこそ老女優の語るままに「記憶」と「映画」は自在に入り交じることができる。
アニメだからこそ、その2つを区別するものは、表現の水準では本質的に存在しないのである。

『パプリカ』の場合も、「夢」と「現実」がともに「描かれた現実」であることには変わりがない。
しかし本作が『千年女優』と異なるのは、「夢」と「現実」は地続きの関係性ではなく、互いが互いに変容していくというより混淆の度合いが深い関係性にあるという点だ。

この変容がどのようにもたらされるのか。それは「描かれた現実」の根底の部分にある「物質性」、そこに手を加えることで「夢」は「現実」に、「現実」は「夢」へと変容する。
作中では「夢」は「夢の主の無意識な欲望を反映し歪んだ現実」として表現されている。その絵のレベルで歪みを加えてやると「現実」は「夢」に、歪みを補正してやると「夢」は「現実」に変容するというわけである。

問題は映画3作目にあたる『東京ゴッドファーザーズ』である。
拾った赤ん坊の親を探そうとする3人のホームレスの姿を描いた本作は、「虚構と現実」というモチーフは採用されておらず、映画作品の中では一番リアリスティックな作品と思われている。

だがよく知られている通り、本作はエアコンの室外機や窓などを目や口に見立てた「顔に見える風景」がさまざまなカットに仕込まれている。これは、例えば小道具を使って画面に象徴性を帯びさせ、ドラマを深めるといった画面づくりともまた異なる。
「顔に見える風景」は、主人公たちを見つめる、町に住む八百万の神の姿とでもいうべきもので、その点で本作における「世界観」を表しているものだと考えられる。

『東京ゴッドファーザーズ』の登場人物たちの視線では、この「顔」を発見することはできない。この「顔」を発見することができるのは、観客のみなのである。
つまり本作の背景は、同じ1枚の絵でありながら「登場人物にとっての現実」と「観客にだけ見える顔のある風景=一種の虚」という二重の情報が重なっている状態なのである。
ここではこの二重性こそ「描かれた現実」だからこそ仕込むことができるものだ。

手品を始める時のおなじみの口上に「種も仕掛けもございません」というものがある。もちろん観客は、手品は魔法ではなく「種も仕掛けもあること」を知っている。
だがそこに「種も仕掛けもございません」と、一度「仮構された現実」を設定することで、手品というイリュージョンが成立するのである。

今敏監督の映像を使った演出はまさにこの手品の段取り通りに出来上がっており、卓越した画力による「絵であることを忘れさせるようなリアリスティックな絵」をまず一旦「現実」と思わせておきながら、「実はこれは絵である=虚構」という形でその現実を虚構と同じ位置に併置する。

これが今敏作品における「虚構と現実」の関係であり、それが今敏作品に宿ったアニメならではのイリュージョンなのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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