「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズにおける“戦争”の描かれ方の変遷 藤津亮太のアニメの門V 第38回 | アニメ!アニメ!

「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズにおける“戦争”の描かれ方の変遷 藤津亮太のアニメの門V 第38回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第38回目は『ゲゲゲの鬼太郎』のエピソード「妖花」を題材に、エンタメにおける“戦争”の描かれ方を考察します。 題材に“本作は何を描いているのか”を物語構造から分析します。

連載・コラム 藤津亮太のアニメの門V
  
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この原稿は言及する各作品の重要な部分に触れています。



『ゲゲゲの鬼太郎』第20話「妖花の記憶」が8月12日に放送された。
メインキャラクターのひとり、犬山まなの大伯母・沢田淑子がゲストキャラクターとして登場し、彼女の悲恋を手がかりに、まなが戦争というものを体感していく内容だった。
このエピソードは、1968年に発表された原作の「妖花」をアニメ化したものだ。

『ゲゲゲの鬼太郎』はもともと紙芝居にルーツをもつ作品だ。貸本漫画を経て、1967年から「少年マガジン」で『墓場の鬼太郎』として本格的に連載が始まった。
そして、アニメ化にあたり『ゲゲゲの鬼太郎』という現在のタイトルに改称。1968年からアニメは第1期がスタートした。その後、繰り返しアニメ化され、現在放送中のシリーズは第6期になる。
「妖花」はこの6回のアニメ化のうち、第2期を除く5シリーズで毎回映像化されている。

「妖花」はわずか15ページほどの短編だ。
両親のいない孤独な女性・花田花子の安アパートに、今年もまた不思議な花が咲き乱れる。どうやらこの花は南方に咲く花らしい。その謎を知るために、花子は妖怪ポストを使って鬼太郎に手紙を出す。
花子の依頼を受けた鬼太郎は、花子をともなって花のルーツを探して南の島々へと蛤(ハマグリ)船で出発する。

妖気を手がかりにある島に上陸すると、そこには太平洋戦争の跡が残っていた。やがて妖花の種を撒き散らしている大木が見つかる。
その根本を掘り返すと白骨が見つかる。指には「花田」と書かれた指輪がある。それは23年前に死んだ花子の父だった。その父の思いが、花の種を花子のもとに送ってきたのだ。鬼太郎たちはその白骨を手厚く葬る。

シンプルな力強さがある一方で、短いだけにアニメ的に膨らませられる余地もまた多い原作だ。また原作発表から今年で半世紀ということもあり、後のシリーズになるほど時代に合わせたアレンジが必要な原作でもある。
各期を見ると、原作の「父親の指に名字を記した指輪で正体がわかる」という強引な展開をいろいろな工夫でクリアにしようとしている点も興味深い。

では、具体的にどのようにアニメ化されているのか。
第3期71話「妖花の森のがしゃどくろ」は、南の島で妖花が種を撒き散らすシーンから始まる。
森のなかにカメレオンやカラフルな鳥が描かれており、後のセリフから「赤道に近い位置」にあることがわかる。マリアナ諸島やパラオあたりをイメージしているのだろう。
妖花のもとに来た増田華子(第3期はこういう名前)たちが木の根元を掘り返すと、白骨とともに名前が刻まれた懐中時計が出てきて、それが華子の叔父であることがわかる。
叔父の幽霊が姿を見せ、血縁者が自分のもとを尋ねてくれたことの礼を言い消えていく。

まず原作と大きく異なるのは、島を守護している妖怪がしゃどくろが、鬼太郎たちを墓荒らしと誤解して戦いを仕掛けてくる展開だ。このあたりはアクション性に力を入れた明朗路線の第3期らしいアレンジといえる。
もうひとつ特徴なのは、妖花を送っていたのが父親でなく「父親に話に聞いたことがあるだけの叔父」になっているところだ。どうして原作と同じ父親を採用しなかったのか。

第3期71話が放送されたのは1987年3月。実時間が作中の時間と同一と考え、華子の年齢を仮に25歳と仮定すると、華子は1962年生まれ。その父が30歳の時に生まれたとすると、父親は1932年生まれで、1945年にはまだ13歳。叔父であればさらに年下になってしまう。もちろんもっと年が多い父親であってもいいのだが、それを視聴者に直感的に理解してもらうわけにはいかない。
逆に「年の離れた伯父」であれば戦争に行っていてもおかしくない年齢ではある。『アニメ版 ゲゲゲの鬼太郎 完全読本』(講談社)には、このキャラクターは叔父と表記されているが、むしろ伯父と考えたほうが辻褄が合う。

そしてなにより戦死者を父親から見知らぬ伯父に変更したことでテーマの色合いもまた変わった。原作の「戦死した父の娘を思う気持ち」から「忘れられた戦死者たちの、自分たちを忘れないでほしいという思い」へと主題がスライドしている。
このテーマは作中で目玉おやじが、近頃は戦争があったことを知らないものもいる、というセリフをいうことで補強されている。

歴史学研究者の成田龍一は『「戦争経験」の戦後史』(岩波書店)で、日本における第二次世界大戦の語られ方の変化を次のように分けている。

まず、戦争が「状況」として語られた1931年~1945年。1931年は満州事変の年で、日中戦争が始まった年、1945年はいうまでもなく、第二次世界大戦が終わった年である。
次の1945年~1965年は、戦争体験を有する世代が同様の体験をした世代に語りかけることが中心的だった「体験」の時代。
これが1965年から1990年になると、戦争体験を有する人が経験を共有しない人に語りかけていく「証言」の時代となる。
そして1990年以降は、戦争体験を持たない人々が多数を占める時代となり、さまざまな戦争の語りを統合して、社会における集合的な記憶を形成していくことになる「記憶」の時代である。

1987年放送の第3期は、「見知らぬ叔父」にしたことで、戦争の当事者から、戦争を知らない戦後世代の華子へと事実を伝えようとする構図になっており、これは戦争と視聴者の関係ともパラレルになっている。これは成田の指摘した「証言の時代の語り」といえる。

この「証言の時代の語り」は、1996年の第4期第30話「妖花!夏の日の記憶」で、さらに徹底されることになる。
たとえば同話の放送は8月4日だが、作中の日付も8月15日に設定。終戦記念日を知らない小学生に、書店で働く花子がどういう日かを教えてあげるシーンが前半で登場する。
そこで戦争は「お父さんやお母さんが生まれる前の出来事である」とその距離が強調される。

第4期の花子は自分を育ててくれた祖母がいたが、3年前に祖母は失踪していた。花子は、毎年咲く妖花が祖母をどこかに連れて行ったのではないかと疑っていた。
そこで花子は鬼太郎に調査を依頼。やがて「祖母と祖父の結婚写真」と「妖花が描かれた南方の戦場跡を描いた絵画」というふたつの手がかりが出てきて、花子を南方の島に導くことになる。
南方の島に到着し、木の根元を掘ると最近亡くなった祖母の死体と戦死した祖父の死体が寄り添って見つかる(白骨死体が祖父母である確認のために、お揃いの指輪が小道具として使われる)。
祖母は花子が成人し、自分ももう年老いたこと自覚し、自ら祖父の眠る土地へと向かったのだった。祖母は、瓶に入れた遺書に自分の気持ちを書き花子に残していた。

本エピソードでは、花子が、知識として知っていた戦争を、自分(と祖母)の人生に影響を与えた“リアル”なものとして改めて体感するという部分がポイントといえる。
見知らぬ戦死者との祖父を、あとに残され戦後を生きた祖母の人生を通じて知るという、ワンクッションおいたアレンジも工夫を感じる点だ。

花子と妖花の樹木の下に眠る人間をなんらかの方法で因縁付けないと「妖花」のプロットのおもしろさを生かすことは難しい。
とはいえ現実には戦争体験者はどんどん高齢化しており、『鬼太郎』が新たに作られるたびに、物語の中で戦争を自然に登場させることは難しくなっていく。なにしろ第4期の時点で、既に戦後50年を経過しているのである。

2007年から始まった第5期の第96話「怪奇ロマン!妖花の誘い」は、戦争の部分に大胆に切り込んだアレンジをほどこした。
結論からいうと、大胆にも「戦争」という要素をはずし、原作の「死んだ父の娘への思い」という部分だけを生かして、船乗りの父とその娘・まゆみのエピソードを作ったのだ。
また少年漫画的なヒーロー性に立脚したシリーズだけに、第3期と同様、南の島に上陸後、妖怪・花魄とのバトルシーンも用意されている(なお本作は南の島への移動に蛤船ではなく、妖怪飛行船を使っている。これもかなり独特のアレンジといえる)。

そして、変化球だった第5期を挟んで、冒頭で紹介した第6期第20話「妖花の記憶」は、再び戦争を題材に取り上げた。
興味深いのは、第3期・第4期の「証言の時代の語り」に対し、第6期は「記憶の時代の語り」になっているという点だ。
成田が「さまざまな戦争の語りを統合して、社会における集合的な記憶を形成していく」と書いたとおり、第3期・第4期が「前線で死んだ日本兵の視点」だけが取り上げられていたのに対し、そうではない視点が盛り込まれている点だ。

第6期の“花子”に相当するキャラクターは、まなの大伯母。沢田淑子だ。
入院中の淑子は、見舞いにきたまなに、自宅に花が咲いているか見てほしいと頼む。淑子の家には、毎年お盆の時期になると、家の屋根や壁面、庭を覆いつくすほど妖花が咲くのだ。そして今年は例年よりも多くの花が咲き乱れていた。
淑子は独身。戦時中に結婚を約束していた男性・総二郎がいたが、急に音信不通になってしまい、淑子は以来、頑なに愛することも愛されることもせずに一人で生きてきたという。

咲き乱れる妖花の大元を求めて、南の島に赴く鬼太郎たち。第6期の「南の島」は「赤道を超えたあたりにある」と言及され、後半で精霊トゥブンも姿を見せることから、原作者・水木しげるが戦ったパプアニューギニアを念頭に置いていると考えられる。
これまでも島には戦争の名残として、朽ちた戦車が描かれてきたが、本作ではまず日本語で書かれた慰霊碑が登場してまなを驚かせる。さらに鬼太郎が、当時の日本は大きくなろうとしていて、現在は友好的な関係の国々と戦ったと解説する。

加えて、まなが、日本はアメリカに攻められただけだと思っていたというと、目玉おやじが、日本もほかの国に攻めたり戦っていたりした、と補足する。
原作も含めてこれまでのアニメ化では、「誰と戦った」かは明確に言われたことがなかった。それは自動的に戦争について語ることが「戦争に負けた」という一点にだけ集約してしまう状態を生んでいた。
ここでは少し引いた視点から事実が語られ、この説明こそ成田が書いたとおり「さまざまな戦争の語りを統合して、社会における集合的な記憶を形成していく」という「記憶の時代の語り」に照合する部分となる。

そして「記憶の時代の語り」は、最終的に日本に戻ったまなが、自由研究で戦争のことについて調べたという展開にも繋がる。
個人的な悲劇の体験を伝えられる「証言の時代」のドラマではなく、ここではまなは、さまざまな人が多角的に調べ語り継いだことを統合して形成した「記憶」にアクセスしているのである。自由研究の発表で、まなが「戦争で命を奪い奪われた」と2つの視点から語っているところに注目したい。

作品は後半、夜な夜な戦場の音だけが響くという心霊現象が描かれる。また、まなを妖花の大樹まで導く「軍靴の足跡」も登場する。戦場の音は、森林を伐採する企業が妖花の大樹まで切り倒そうとしていたため、精霊トゥブンが行っていたことだった。
大樹の下には、まだ大量の日本兵の白骨が眠っているのだが、日本企業はこれを無視して捨て去ろうとしており、精霊トゥブンはその戦死者たちを守ろうとしてくれたのだ。

白骨の死体の中に、淑子宛の封書を手にしたものがあった。それは総二郎の骨だった。手紙には、総二郎が結婚に反対する親に入隊を強制され、その事情を伝える手紙を淑子に出すことも叶わず戦死していたことが記されていた。
その手紙を手にした淑子は、総二郎の思いが妖花となって帰ってきてくれていたことを実感する。

このように本作は、淑子と総二郎の悲恋と、それを通じてまなが戦争を実感するという二重の構造になっている。とはいえ20年前の第4期のように、直接的に祖母とするわけにもいかず、どうしてもまなの関わりが第三者的になってしまう。
だから「戦場の音」と「軍靴の足跡」は、まなに、戦場で起きたことと戦死者の無念を体感してもらうための仕掛けといえる。

こうしてみると第6期は、第3期の墓守だったがしゃどくろが精霊トゥブンに、第4期の祖母の「引き裂かれた夫婦」が「叶わなかった結婚」に対応している。そういう意味では、アレンジを重ねてきた「妖花」アニメ化の総決算という趣もある。

では原作発表直後にアニメ化された第1期第32話「妖花」はどのように「妖花」を描いていたのか。
展開的には、花子がハモニカで吹く「埴生の宿」に導かれるように妖花の種子が飛んでくるなど、花子と妖花の間になにか因縁があるらしいという部分が強調されている。また南の島では妖怪の小鬼が顔を見せたりもする(それほどストーリーには絡まない)。

一番大きなアレンジは、妖花の木の根元に広がる洞穴で見つかった白骨死体の中で見つかるのは、花子の父に加え、母もいるという点だ。
母がいることで指輪という小道具が不自然でなくなるということもあるが、もっと大きな違いは、ここにある白骨死体は、兵士だけでなくこの洞穴に逃げ込んだ民間人も含めた「玉砕」の結果という点にある。花子の両親は生まれたばかりの花子を輸送船で逃し、自分たちは島で玉砕したのだ。

手帳に遺された父の遺言を花子が読む時、その最期の瞬間も回想として描かれているが、兵士だけでなく兵士の妻、あるいは子供も描かれている。南の島はワニが出てきたり漠然と南方風に描かれているが、沖縄のイメージも重ねられているのではないかと思う。
ただ本作では、そうした戦争のデティールはほとんど語られない。戦争のイメージが、視聴者の中にも十分共有されていることを前提にストーリーが語られている。
その結果、本作は1968年に放送されたにも関わらず、「証言の時代の語り」以前、むしろ1965年までに主流だった、戦争を経験した人間が同様の経験をした相手へと語る「体験の時代の語り」に限りなく接近している。戦場が遠い南方の島ではあるが。「花子の生まれた土地=故郷であった」という展開は、当時の日本人としては納得しやすいポイントだったと思われる。

こうしてみると同じ「妖花」を原作としながらも、時代にあわせてその語り口は大きく変わってきたことがわかる。ではもし『鬼太郎』第7期があった時に、どういう形で「妖花」は語られることになるのか。
「記憶の時代」の先を考えるなら、それは語り部によって語り伝えられる「伝説の時代」ではないだろうか。だがそれは「語り」がクリシェに陥り、リアリティを失っていく可能性も十分秘めている。

エンターテインメントの枠の中で、いかに戦争という現実を生々しさを失わずに取り扱うことができるのか。
これは実は、国民の大半が戦後生まれとなった時に、それぞれ個人がいかに第二次世界大戦との距離感を設定するか、という問題と深く結びついているのだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

《藤津亮太》

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