“ベスト10”とはどうあるべきか?「映画芸術」アニメ除外問題が浮き彫りにしたもの 藤津亮太のアニメの門V 第31回 | アニメ!アニメ!

“ベスト10”とはどうあるべきか?「映画芸術」アニメ除外問題が浮き彫りにしたもの 藤津亮太のアニメの門V 第31回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第31回目は、映画雑誌『映画芸術』が、同誌の「日本映画ベスト&ワースト」の対象からアニメ映画を除外した事件から、“ベスト10”とはどうあるべきかを探る。

連載・コラム 藤津亮太のアニメの門V
  
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老舗の映画雑誌『映画芸術』が、同誌の「日本映画ベスト&ワースト」の対象からアニメ映画を除外したことが話題を呼んでいる。

当該の同誌では「討議」として「ベスト&ワースト選出方法を探る」という座談会を掲載した。この座談会は、映画評論家の稲川方人の進行で、映画監督の河村雄太郎、映画プロデューサーの寺脇研、同誌の発行人で脚本家の荒井晴彦によって行われている。これを読むと、単純に「アニメ映画を対象外にした」ということが奇妙なだけでなく、その背後には「ベスト10はどうあるべきか」をめぐる問題があったことがわかる。

最初に筆者の「ベスト10」に関するスタンスを記しておこう。
筆者は、「ベスト10」を雑誌などの“お祭り”として大事だと思っているが、個人としては積極的に参加する意志はない。依頼があって引き受ける場合は、順位を付けず、選評が許されるなら「単純な良し悪しではなく、何かのコンセプトに沿った10作」として紹介するようにしている。順不同なのは、煎じ詰めれば、たとえば10位と9位の差を合理的にかつ普遍的に説明するのが不可能だと思っているからだ。つまり「ベスト10」の仕組みを利用して、なるべく多くのアニメを紹介しようという心づもりで参加している。だから、年間回顧的な記事でも、媒体によって取り上げる作品が異なることがままある。

さてアニメを対象外にしたのみならず、『映画芸術』のベスト&ワーストの選考方法は前年から大きく変更が加えられている。それが以下のポイントだ。

・選者が選ぶ作品がベスト・ワーストそれぞれ10本から5本に。
・選んだ1位から5位にはそれぞれ10点、7点、5点、1点、1点が割り振られ、それを集計してベスト・ワーストが決まる。
・映画芸術が長らく採用してきた、ベストとして投じられた点数からワーストとして投じられた点数を引いて、最終的なベスト作品の順位を決めるという方法を辞めたこと。

どうしてこんな変更があったのか。その理由として、長らく「ベストからワーストを引く」という方法に違和感を唱える声があったことがまずあげられた後、一番は「大きなマス媒体を通して選ぶ評価と『映芸』がある種の固有性で選ぶ評価が、どうしても似てしまうということが、このところ目立ってきたのが、今回の改変の大きな理由です」(稲川)と語られている。

ただし一方で、稲川は、その後に「それは、『映芸』の問題ではなくて、日本映画の状況だろうと思いますが」と続けている。つまり、雑誌(ベスト10)の価値観を打ち出すためにレギュレーションを変更したというわけだ。
雑誌が固有の価値観を持つことは大変結構だが、レギュレーションの変更でベスト10の価値観というものは打ち出せるものなのだろうか。普通に考えれば、雑誌の価値観と選者の価値観がそれぞれある中で、その雑誌ならではのベスト10というものは、選者の選択が示す価値観の積み重ねによって出て来るものなのではないだろうか。でなければ選者を頼む理由がない。

「日本映画の状況」の反映としてベストが似てしまうのなら、それを肯定するにせよ、否定するにせよ、まず雑誌の価値観を示すところが始まりになるべきだろう。そして、その価値観にこそ共感する人を広く選者として選べば、自然とその雑誌なりのべスト10の価値観が示されるだろう。このあたりの状況の整理に疑問が残るからこそ、河村も選者を7人ぐらいまで減らして、その後に荒井・寺脇・稲川の座談会で決めればよい、という意見を言うことになる。
つまり、複数の選者の価値観を積み上げて雑誌の価値観を形作るための投票方式なのに、選者の価値観に先立って、編集部が「アニメを対象外とする」とかなり独特な価値観を(その理念も説明しないままに)押し付ける形で先行したことこそが、今回の出来事の座りの悪さに繋がっているのである。

その背後にあるのは、「映芸的なるもの」という幽霊なのではないか。座談会を読むとそういう感触がする。

たとえば座談会前半で、稲川は、昨年のベストテン1位がアニメの『この世界の片隅に』であり、「映芸」としては何かしっくりこない、どう考えていいのか分からなかった、と明かしている。続けて「だっから『映芸』として態度をきちんと表明したほうがいいのではないかと思った次第です」。
ここでは、選者の意見の集合ではなく、「映芸的なるもの」が優先されている。だから、ルールの修正についても「編集部が全員一致で決めたわけではない」と言いつつ、アニメの扱いについては「『映画芸術』全体として」意思を表明した、という言い回しになっている。(ルールの修正には全員一致でないが、アニメを対象外にすることについては全員一致という状況も考えられるが、この後の座談会を見てもそういう話は出てこない)。
これは稲川が「荒井の中に世間で評価されていてもダメなものはダメと言いたい気持ちがあるのでしょう?」(要旨)と質問した時の、荒井の答えにもよく現れている。
「そうなんだけれども、アライがダメというのと『映芸』がダメというのでは、反響が違う。でも、最近は俺がダメと思っても、『映芸』はイイになってしまう」。

ここでもやはり選者の価値観の積み重ねがベスト10であり、最終的には雑誌の個性にもつながるというところが忘れられ、編集長とベスト10の価値観に距離があることが問題になってしまっている。これもまた現状現実ではなく「映芸的なるもの」を忖度している結果ではないか。
選者の一人だった、映画評論家の吉田広明が、「現在の日本映画においてアニメの重要性は無視し難い」「ワーストに選んで批判すればいいではないか」(要旨)と指摘したのも、本来なら選者が担うべき価値判断を勝手にレギュレーションで行ってしまう奇妙さに違和感を感じたからだろう。

そして、ふわふわとした「映芸的なるもの」に振り回されているからこそ、改めて「何故アニメを対象外としたのか」と問われた時に出て来る意見もまた支離滅裂なものになる。
稲川、河村、荒井はそれぞれの言葉でその意見を語るが、共通しているのは「アニメは役者を撮影していない」という点である。
それは、たとえば「(投票の)ルール以前に重要なのは『スジ』『ヌケ』『ドウサ』が三位一体となったパワーです。『アニメは映画ではない』などと言ってはいけません。立派な映画です。ただし『ドウサ』を欠いている映画です」(河村)という発言に象徴される。

スジはストーリーのこと、ヌケは映像美、ドウサは演技のこと。この言葉以外にも、アニメが演技というものをどのようにとらえ、どのように表現してきたかを知っていれば、出てくるはずのない発言がある。特に、役者がカメラの前で演技が“ホンモノ”であり、だから観客の胸を打つという河村の発言は、虚構と現実を甚だしく混同しているといわざるを得ない。

とはいえ問題は無知にあるのではない。鰯(「映芸」的なるもの)の頭も信心からともいう。問題はベスト・ワーストの投票に先立って、「鰯の頭が信心に足る」という理念を示さないまま、突然にアニメを対象外にしたことこそが、運営上の一番の問題だろう。先に雑誌の理念が示されて、賛成にしろ反対にしろ選者と編集部の価値観が「ベスト・ワーストはどうあるべきか」という点をめぐって、ちゃんとぶつかったほうが生産的だったのではないか。

編集部側の理念の提示を欠いたまま「映画芸術らしいベスト・ワースト」を求めてルール変更を行い、かつその理由の一つが(国産アニメは100年前からあるにもかかわらず、ことここに至って)「役者を撮影していないから」というから、それは「映芸的なるもの」の実現こそが優先されている姿勢にしか見えないのだ。

なお、個人的には、この「アニメはドウサを欠く」という意見には異論がある。
高畑勲監督の、アニメのよい演技とは、単に現実模倣的な動きではなく、印象を際立たせた落語の所作のようなもので、観客の中に実感を湧き上がらせるものであるという指摘。あるいは「ある動作を思い浮かべた時、筋肉はそれに反応している」という研究報告をベースに永井一郎が表明した「体を使った演技も声だけの演技も本質的に変わりない」という意見。そういったものを考えるに、アニメにもまたドウサはある。そう思わないのは個人の自由だが、そういう作品の成り立ちに目をつぶる自由を行使している姿勢は、リテラシーが高いといえるものではない。

河村は「『映芸』は個人経営の専門商社です。取り扱い商品の選択と集中をしたにすぎない」と語っている。確かに、どの範囲をベスト・ワーストの対象にするかは、その雑誌の自由である。ただ範囲を広げるのではなく、「選択と集中」をしたのであれば、それは「一部の映画」をめぐる議論であって、映画全体から見たらサブジャンルであるということになると思う。

《animeanime》

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