「窓ぎわのトットちゃん」「屋根裏のラジャー」で描かれる大人と子供の境界線【藤津亮太のアニメの門V 第102回】 | アニメ!アニメ!

「窓ぎわのトットちゃん」「屋根裏のラジャー」で描かれる大人と子供の境界線【藤津亮太のアニメの門V 第102回】

『窓ぎわのトットちゃん』と『屋根裏のラジャー』は、舞台も時代も異なる2作品だが、大人と子供の境界をどう描くかという点については、ともに自覚的である。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※この記事は映画の重要な部分に触れています。鑑賞後にお読みください。  

大人と子供。その間に存在することは間違いないが、それをどう引くかはとても難しい「境界線」を、どう扱うか。『窓ぎわのトットちゃん』と『屋根裏のラジャー』は、舞台も時代も異なる2作品だが、大人と子供の境界をどう描くかという点については、ともに自覚的だった。そして、当然ながら主題が異なる以上、その境界線の描き方も、またそれぞれに異なっているのだ。  

『窓ぎわのトットちゃん』は、大人の世界は常に「ガラス越しに垣間見えるもの」として描かれる。トットちゃんは、窓ガラス越しに、優しいはずの指揮者のおじさん・ローゼンシュトックの、楽団員に対して苛立ちをぶつける姿を見てしまう。優しい小林先生が、担任の先生の不適切な発言がいかに問題かを厳しく諭す様子も同様だ。また中盤にはトットちゃんが、小児麻痺の友達・泰明ちゃんと一緒に木登りをするシーンがある。この時の奮戦で汚れてしまった服を手にした泰明ちゃんの母は、見通すことのできない風呂場のガラス戸の向こうで、静かに喜びの涙を流している。  

子供と大人の間にある「ガラス戸」。これは大人が生きている「社会」あるいは「世間」といったものと、子供の世界を切り離しているものなのだ。だからこそ、子供たちは世間に左右されずに、自由で豊かな時間を過ごすことができる。このような描写が要所で織り込まれているからこそ、大人の世界の出来事でしかなかった「戦争」が、じわじわと子供の世界を侵食してくる様子が、息が詰まるような重苦しさを感じさせるのだ。クライマックスの、行進する出征兵士たちと逆方向にトットちゃんが駆けていく印象的なシーンは、そんな子どもの世界を大人の世間が侵食してくる「時代」というものを鋭く描き出していた。  

終盤間近、トットちゃんと小林先生の「約束」のシーンが描かれる。本作では何回か約束するシーンが出てくるが、その約束はいずれも果たされない。このトットちゃんの「トモエ学園の先生になる」という最後の約束もまた果たされない。なぜなら、トモエ学園は空襲で消失し、結果として幼稚園のみしか再建されなかったからである。  

果たされないかもしれないにもかかわらず人は約束をする。それは人が「未来」があると信じているからだ。大人の生きる世間と子供の世界には、「ガラス」という境界線があるが、未来を信じたい心はともに同じ。『窓ぎわのトットちゃん』は、そんなふうに大人と子供を描き出したのだ。  

『屋根裏のラジャー』もまた、大人と子供の間に明確な線を設けてスタートする。本作の主人公・ラジャーは“イマジナリ”。一般的には、イマジナリーフレンド、イマジナリーコンパニオンという言葉で知られる、子供たちにだけは見える「空想の友達」のことである。当然ながらラジャーは、彼を想像したアマンダという少女にしか見ることはできない。アマンダの母・リジーにはラジャーの姿はまったく見えていない。  

しかし、映画が進んでいくと「イマジナリは子供にしか見えない」というのは絶対的な法則ではないことが示される。そこから本作の「大人」と「子供」の関係性は入り乱れていく。  

母・リジーにも子供の頃、イマジナリが側にいた経験があった。それは“レイゾウコ”というイヌの姿をしたイマジナリだった。多くの場合、想像する子供が大人になって忘れてしまえばイマジナリーは消えてしまう。しかしレイゾウコは、想像主から離れてしまったイマジナリーたちが暮らす「図書館」にたどり着き、そこで永らえていたのである。リジーのことを忘れずに。そしてクライマックスでは、絶体絶命のピンチの最中に、レイゾウコのことを思い出した彼女のもとに、レイゾウコはイヌらしい律儀さで颯爽と駆けつけるのである。  

そして『屋根裏のラジャー』にはもうひとり、大人なのにイマジナリを連れている存在がいる。それが、イマジナリを食べてしまうミスター・バンティングという男性だ。彼は、イマジナリたちにとって都市伝説的な存在で、本人も大変長生きをしていると語っており、もはや“化け物”の領域に足を踏み入れている。彼の側には黒い髪をした少女のイマジナリが常に存在している。  

バンティングと少女は、リジーとレイゾウコ、アマンダとラジャーと対照的な存在として位置づけられる。  
リジーは大人になる過程でレイゾウコと別れていたが、バンティングは大人の今も常に少女と一緒にいる。しかもバンティングと少女は「友達」という関係性にも見えない。どちらかというとバンティングが少女を使役しているように見える。また少女であるアマンダが、男の子のイマジナリであるラジャーを想像したのに対し、男性であるバンティングのイマジナリは少女である。  

まず、どうしてバンティングのイマジナリは少女なのか。これを考えるには、そもそもアマンダが想像したラジャーはどうして少年なのかを押さえておく必要がある。  

原作では、アマンダの父は、彼女が生まれるちょっと前に亡くなったと設定されている。映画はそれを、比較的最近の出来事に変更した。そのためリジーは、夫の経営していた書店を手放すことを決め、現在は求職活動に忙しい。父が死んだことでアマンダの生活は変わらざるを得ない。そのことをアマンダは日々実感している。そして映画の後半では、あまり触れられてこなかったアマンダの父への思いが明らかになる。  

映画冒頭から登場していたアマンダの黄色い傘。現実世界では骨が一部歪んでしまっているその愛用の傘の内側には、父がアマンダに残した最後のメッセージが書かれていたのだ。リジーは、アマンダが交通事故で入院してしまったその夜に、そのことを偶然知る。  

書かれていたのは、父親のことを忘れないこと、母親のことを守ること、そして泣かないこと、という3つの約束。ラジャーはリジーが傘の内側のメッセージに気がついた瞬間を目撃する。この約束は、映画序盤でラジャーとアマンダが唱える3つの誓い(消えないこと。守ること。泣かないこと)の原点だったのだ。この事実をリジーとともに知ったラジャーは、なぜ自分が生まれたのか思い至る。ラジャーは、アマンダの父親への思いが生み出したイマジナリだったのだ。だからアマンダは女の子なのに、ラジャーは男の子なのだ。  

『屋根裏のラジャー』のドラマ的なピークはここにある。本作は「ラジャーのアイデンティティの正体に迫ることで、アマンダの胸中が明らかになる」という構造になっているのだ。この構造は原作にはなく映画化にあって肉付けされた部分だが、原作の「アマンダ・シャッフルアップは、こんなふうにしてラジャーと出会ったのだ。いや、ラジャーがアマンダ・シャッフルアップに出会ったといってもいい。それは、あなたがこの話をどっちの子の物語と考えるかによって違ってくる」という一節の延長線上にある(だからこの映画はどの「視点」で見ればいいかが、若干の難しさになっている)。  

このラジャーとアマンダの物語の延長線上に、バンティングのイマジナリが少女な理由も想像することができる。あるインタビューによると作り手は当然ながら、バンティングについてもバックストーリーを用意していたという。しかしそれは映像の中では具体的には描かれていない。バンティングの過去は、キャンプファイヤーの中に浮かび上がるイメージの断片としてしか画面には示されていない。
またそのシーンは、イマジナリたちの中に広がっている噂がビジュアライズされたものとして受け取れる表現にもなっており、映画だけを見ていると、炎のイメージとして示されたエピソードが、そのままバンティングの身の上に起きたことと考えるかどうかは難しいところだ。  

ただ画面上から想像するに、ラジャーがアマンダの父への思いが産んだ存在ならば、少女はバンティングの母への思いが産んだ存在であると考えるのは、決して無理なことではないだろう。  

おそらくバンティングは母から愛されなかったと感じて育ったのではないか。もしかすると早くに母を亡くしているのかもしれない。恐ろしい形相に見える少女だが、アップになったときの目が悲しげなのは、彼女が「母」の目線でバンティングを見ているからではないか。バンティングがイマジナリを捕食することを手伝う彼女は、自分をコントロールできない子供の要求に無制限に答えてしまう親のようだ。  

「イマジナリを食べてしまう」という異常行動も、母子固着による、欠落を埋めるための一種の摂食障害的なものではないかとか、あるいは彼の中の女性性(アニマ)が持つ包摂への欲求が、悲しみのあまり暴走したものではないかとかに思えてくる。いずれにせよこの行動は、少女を空想しなくてはならなかったバンティングの内面の問題と深く関わっているはずだ。  

河合隼雄は『大人になることの難しさ』(岩波現代文庫)の中で、『思い出のマーニー』(ジョーン・G・ロビンソン)の原作を取り上げるている。河合はそこで、主人公アンナを癒やすことができたのは、マーニーという幻想世界の住人(つまりイマジナリーコンパニオンということである)だけであったことを指摘する。そして次のように書く。
「(同書を)読んで、筆者が感じたことは、人間存在というものを考えるとき、こころとからだという2つの領域のみではなく、その両者をあわせて全体性を形作るものとしての第三領域の存在を仮定せざるをえないということであった。(略)マーニーこそ、その第三領域からの使者ではなかっただろうか。この第三領域について、筆者は今のところ、それほど詳しく確実に語ることはできないが、それが古来から、たましいと呼ばれてきたものではないかと考えている」  

河合は続けて、個々の人間が個々に大人になるときに、たましいに触れて、己を超える存在への認識を持つことが必要になるのではないか、とも記している。別のところで河合は、現代社会はイニシエーション(通過儀礼)を一度すませば、それで終わりという時代ではなくなったとも記している。日々変化していく世間の中で、“私”も日々変化していくのが、現代のイニシエーションである、と。  

ラジャーは、自分が生まれた理由を知った瞬間に単なる「空想の友達」から、この「第三領域の使者」「たましい」となったのだろう。さらに、「たましい」となったラジャーとアマンダの再会に立ち会ったリジーは自らの「空想の友達」だったレイゾウコと再会する。このとき、リジーもまた、「自分の中の子供」を再発見し、それまでの彼女自身から変化したのだ。  

一方、バンティングの少女は、バンティングの感情には寄り添ってはいたが、「たましい」となって癒やしを与えることはできなかった。この違いがどこにあるか本作では示されない。アマンダと両親の関係性と、バンティングと両親の関係性に大きな差があったのではないかと想像することはできるが、それについての映像の中で補完することは難しい。ただ観客にわかるのは、少女は、もはや内面があるかもあやしく、虚無に突き動かされるだけのバンティングを、身を挺して止めることしかできなかった、という事実だけである。  

そういう意味でバンティングは、うまく精神的に大人へと成長できなかった「迷子」だったのではないだろうか。イマジナリを捨てなかったから迷子になったのではなく、むしろ「迷子」になったからこそ、自分に欠けているものを補完するイマジナリを必要としたのではないか。ただ、もとから彼の中にないものはイマジナリを生み出しても埋めることはできなかった。そう考えるとバンティングも、リジーとは異なる意味で、世間にしばしばいる大人のひとつの姿ではある。  

こうして考えていくと映画の中で、バンティングにもなにかわずかでも救いがあってほしかったという気持ちにはならなくもない。ラジャーとアマンダの物語であるから、バンティングの最後が作中の表現のとおりになるのは自然なことではある。でも、誰もがなにかのタイミングでバンティングにならないとも限らないと思うと、彼の行く末についてまた別の感情が湧いてもくる。  

『屋根裏のラジャー』はこのように、「大人と子供」の境界線があるところから物語を始めるが、そこに回収されない存在が次々と出てくる。そして「子供の中に芽生えてくる自我=大人」「大人の中に眠っている子供」、そして「大人になれず子供でいられない“迷子”」という形で、大人と子供の境界線を無効化していく。これはこれでひとつの真実だ。  谷川俊太郎と鴻上尚史の共著『そんなとき隣に詩がいます』(大和書房)には、小学生を主人公にした詩をかけることについて、谷川が「年齢って年輪みたいなものでしょう。いつでも、どの年にも戻れるでしょう」と語ったエピソードが紹介されている。『屋根裏のラジャー』を見て、この言葉を思い出した。


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