「機動戦士ガンダム 水星の魔女」自分の“限界を知る”プロセス― 「逃げたら一つ、進めば二つ」の先へ【藤津亮太のアニメの門V 第96回】 | アニメ!アニメ!

「機動戦士ガンダム 水星の魔女」自分の“限界を知る”プロセス― 「逃げたら一つ、進めば二つ」の先へ【藤津亮太のアニメの門V 第96回】

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が最終回を迎えた。TVシリーズの『ガンダム』シリーズ――ここではガンダムというキャラクターの存在を前提とした派生作は除く――が、従来の半分の2クールということにまず驚かされたが、その内容もかなり特徴的だった。  

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※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が最終回を迎えた。TVシリーズの『ガンダム』シリーズ――ここではガンダムというキャラクターの存在を前提とした派生作は除く――が、従来の半分の2クールということにまず驚かされたが、その内容もかなり特徴的だった。  

ポイントのひとつは本作の戦争の扱いにある。戦争を基本的に「フレームの外」においた。それは戦争の存在が「解決することできない世界の前提」として扱われているからだ。“水星から来た魔女”が旧弊な地球圏全体の諸問題をガラガラポンしてくれたら爽快だったろうとは思うが、そういうアプローチを最初から封じているところに、本作の独特の立ち位置がある。  

本作には、戦争シェアリングという設定がある。これは、ベネリットグループを含むスペーシアン(宇宙居住者)の企業が、地球上の各勢力に兵器を提供することで利益を上げ、戦争を管理する仕組みのことだ。戦争がエスカレートして壊滅的全面戦争へとならないよう管理する、というのがこの仕組みのひとつの目的だ。

作中では、ベネリットグループ総裁であるデリングがこれを導入したと説明されている。しかし戦争シェアリングは同時に、スペーシアンへの富の集中を産み、アーシアン(地球人)との格差が拡大することになった。それは反アーシアン活動を生む原因ともなっている。
重要なのは、設定のリアリティではない。「よかれと思って導入したシステムであっても問題は解決できない」という、落しどころの設け方だ。  

この「解決できない問題」に向かい合うのが、デリングの娘であるミオリネの物語である。物語は、デリングの抑圧的なふるまいをはねのけようとするミオリネの姿から始まるが、そこは本題ではない。本題は、デリングが意識不明となった後から始まる。株式会社ガンダムの代表としてベネリットグループを取り巻く諸々の状況に向き合い、最終的にグループ総裁を目指すことになったミリオネが、様々な事象が絡み合った「解決できない問題」に直面することが本題なのだ。
この「解決できない問題」への直面は、偶然ではあるものの父を殺してしまったグエル、意図的に父の権力を奪取したシャディクの2人のドラマにおいても、変奏して描かれている。  

「解決できない問題」に対して、どのように振る舞うのか。心理学者の河合隼雄は、次のように書いている。
「大人になるためには、なんらかのことを断念しなくてはならぬときがある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが、人間という存在は、自分の限界を知る必要がある時がある。これは真に残念なことだが仕方がない。単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている、ということであろう。」(岩波現代文庫『<子どもとファンタジー>コレクションV 大人になることのむずかしさ』)。  

つまり、第2クールの展開は子供世代のキャラクターが「限界を知る」プロセスであり、「限界」を示すわかりやすい存在として、戦争に象徴される、現在の地球圏の諸状況が示される。重要なのは、河合も書いている通り「限界を知る」は決して「単純な諦め」ではないという点だ。つまり、断念の先に何を見るか、が物語の大事なポイントとなる。  

この「限界を知る」というミオリネの物語に、主人公であるスレッタの物語が絡んでくる。ミオリネが、社会的な状況の中で大人になろうともがいているのに対し、スレッタはもっとシンプルに内面的な成長物語を生きている(このシンプルさが、スレッタが受け身のキャラクターとなった一因であろう)。  

スレッタの物語をひとことで要約すると、移行対象をめぐる成長物語だ。移行対象とは、本来は乳離れの時期になった子供が、母親からの分離不安を紛らわせるため、精神的防衛として抱きしめたりする愛着対象のこと。これを前提に、児童文学などでは、主人公が成長していく過程で一時、自分を預けたり守ってくれたりする存在を移行対象とみなして読解する。  

このような移行対象をめぐる成長物語の典型的な作品が映画『魔女の宅急便』だ。  
『魔女の宅急便』のキキは、魔女の修行として故郷を離れて都会(コリコの街)で一人暮らしを始める。映画前半は「お届けもの屋」として働き始めたキキの様子が描かれる。  

移行対象となるのは、生まれた時から一緒の黒猫のジジと、母から渡された魔法のほうき。映画後半になると、キキはジジの言葉がわからなくなってしまい、ほうきで飛ぶこともできなくなってしまう。さらに、なんとかほうきで飛ぼうと練習をしているうちに、ほうきを折ってしまう。母親と一体化していた自我の再構築がそこで行われる。  

スレッタの物語も、似たような流れで語られる。これは『水星の魔女』が『魔女の宅急便』を直接参考にしたということではない。そもそも参照している「成長物語の形」が同じだからだ。  

スレッタの移行対象は、いうまでもなくエアリアルだ。エアリアルをうまく使えることで、彼女は転入先であるアスティカシア高等専門学園で、人間関係を広げることができた。しかし第13話で、母プロスペラの言葉を信じて疑わないスレッタに対し、ミオリネが疑問を投げかける。ここから彼女の母子分離が始まる。そして第18話で、エアリアルはプロスペラの手に戻ってしまい、スレッタはひとり取り残されてしまう。  

第13話のミオリネからの指摘は、『魔女の宅急便』においては、キキが不機嫌になりトンボのもとから去ってしまうシーンに相当する。そして第18話のプロスペラがエアリアルを取り戻す展開は、ジジと会話ができなくなり、ほうぎが折れてしまう展開と重なる。  

では『魔女の宅急便』でキキは、いかにその状態から回復するのか。落ち込んだキキを支えたのは、仕事の過程で知り合った絵描きのウルスラだった。『水星の魔女』では、その役割を地球寮の仲間たちが果たしている。これは、友達はスレッタが(母とは無関係に)自力で獲得したものだからだ。  

具体的な引き金となるのは第19話、落ち込んだスレッタを囲んだ朝食の席でリリッケが漏らす「いちばんいいやりかたでなくても、そうすることしかできないことがある」という言葉だ。スレッタに向けられた言葉ではないが、これがスレッタに気づきを与える。  

この変化は第21話での、破壊された学園で被害にあった生徒たちのために尽くすスレッタの行動に繋がり、「なにも手に入らなくても、できることをすればいいんだ」という言葉としてアウトプットされる。「逃げたら一つ、進めば二つ」という母からもらったスレッタの座右の銘が、ここで別の形に上書きされるのだ。  

そしてこの言葉は第22話でミオリネにも伝えられる。反スペーシアン組織との地球での会談に失敗したミオリネは打ちひしがれ部屋に閉じこもっている。「よかれと思ってしたことがすべて間違っていた」という自責の念にさいなまれるミオリネ。それに対して、自分も間違ったとスレッタは語り始める。そして「正しくっても間違ってても、自分がやったことは取り戻せないんだって。なにも手に入らなくても、前に行くしかないんだって」という言葉を伝える。私がここまでこれたのはミオリネがいたからで、それは間違いなどではない、と。  

このシーンで、スレッタの母子分離を軸とした成長物語と、ミオリネの「限界を知る」成長物語が合流する。母からもらった言葉を、自分なりにアップデートしたスレッタ。その言葉が、解決できないという「断念」を折り込みつつも、前に進むことを諦めないというミオリネの成長を後押しする。第2クールで展開してきたそれぞれの課題に対して、キャラクターがそれぞれの結論に到達しているという点で第22話は、実質的な最終回なのだ。

このあと物語は、クワイエット・ゼロをめぐるクライマックスが展開される。本作を親子の物語だと考えれば、クワイエット・ゼロという巨大システムの立ち位置もわかりやすい。
クワイエット・ゼロは、デリングにとって、戦争シェアリングに変わる「新たな戦争を止める仕組み」であったと説明されている。ただしこれは、誰かが世界中の兵器の運用を一方的にコントロールできるという、巨大すぎる権力の登場でもある。  

一方、デリングの協力を得てクワイエット・ゼロの計画を実行したプロスペラの本当の願いは、そうした権力の行使とは別のところにある。彼女の願いは、ガンダムエアリアルの中に取り込まれた娘エリィの意思が、(ネットワーク内を)自由に行動できる世界を構築すること。  

つまりクワイエット・ゼロは、デリングが体現する「(善悪などを類別する)切断する原理」(いわゆる父性原理)と、プロスペラが体現する「対象を包摂する原理」(いわゆる母性原理)を兼ね備えているのだ。親子関係がドラマの縦軸に据えられている本作の、クライマックスに登場するにはふさわしい存在といえる。(ただしデリングは早い時期に「切断する原理」を象徴するポジションから降りているため、クライマックスの対立構図は、包摂を巡るもののみにフォーカスが当てられる形になったので、むしろ子供のために世界を塗り替えようとする母のエゴが強調された対立軸になっている)。  

本作は、クワイエット・ゼロの騒乱が終わった後、3年後の後日談で締めくくられている。ベネリット・グループは解体され、デリングなど元幹部は公聴会にかけられている。おそらく戦争シェアリングの枠組みも揺らいでいるだろうが、それでも宇宙と地球の格差や抗議はなくなっていない。物語の最初と比べても、世界の問題は解決されないままなのである。  
そんな状況の中で株式会社ガンダムのトップとして仕事を続けるミオリネはこういう。「人の数だけ正しいがあるもの。いつか必ずどこかで間違うのよ。それでもできることをするの、この先も」  

ここでは第22話でスレッタからもらった言葉がミオリネに受け継がれ、彼女の社会経験の中でさらに磨かれた形で言葉になっている。思えば、株式会社ガンダムという存在そのものが、デリングの行き過ぎた「ガンダム封印」という施策を修正するものだった。もし自分たちが「よかれと思って間違った」のならば、自分たちがそうしたように、誰かが「前に進むこと」で修正してくれるはず。そういう世界に対する断念と信頼が一体となった言葉で、本作は締めくくられる。  

ラストに描かれる夕暮れの麦畑の風景は、優しく多幸感に満ちている。でも、それは「明るい未来」を予感させるものとは違う。ミオリネが「いつか必ず間違う」と言った通り、未来は不確定で誰にもわからない。でもだからこそ、この幸福な一瞬はとても大切なものなのだ。それこそが世界から送られた祝福なのである。


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