「君の名は。」に続く、新海誠作品に見る”実体のない喪失感”と”世界の広がり" 藤津亮太のアニメの門V 第14回 | アニメ!アニメ!

「君の名は。」に続く、新海誠作品に見る”実体のない喪失感”と”世界の広がり" 藤津亮太のアニメの門V 第14回

アニメ評論家・藤津亮の連載「アニメの門V」。第14回目は。毎月第1金曜日に更新中。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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この原稿は『星を追う子ども』と『君の名は。』を比べるため両作の重要な部分に触れています。

『ほしのこえ』がもどかしかったのは、あれほどのメールをやりとりしながら、ノボルもミカコも自分の話しかしないところだ。ダイアローグのような、モノローグの応酬。この自分の内側へと向かって発せられる言葉は『ほしのこえ』から『秒速5センチメートル』に至る、新海誠監督の初期3作に共通する特徴といえる。
モノローグから伝わってくるのは、語り手が抱える「実体のない喪失感」。3作とも、主人公は「恋人以前の関係であったヒロイン」が不在になったことで深い喪失感に襲われる。彼はまだなにも得ていないうちに、“何か”を失い立ちすくんでいるのだ。

だから、『君の名は。』の前半は、携帯電話の使い方を含め、過去の作品とずいぶんトーンが変わっていて非常に印象に残った。ほしから届くモノローグから、「君の名」を問うダイアローグへの変化。
ある日突然、寝ているうちに心が入れ替わってしまった高校生の男女、瀧と三葉。ふたりは、不定期に起こるこの現象に悩まされながらも、互いの携帯電話を伝言板のように使うことでコミュニケーションし、トラブルを少しでも減らそうと努力する。自分の体を委ねることになる相手に、注意したり、怒ったりの日々。映画の前半は、そんなふたりの少し変わった日常をスケッチしていく。
ところが映画が中盤に差し替わると、ストーリーは観客の予想外の方向へと展開する。そこで顔を出すのは、やはり「実体のない喪失感」なのだ。つまりどこか楽しげな瀧と三葉の入れ替わり事件は、やがて瀧が感じる「実体のない喪失感」に観客を立ち会わせるためのものだったのだ。過去の作品であれば、美しい風景を中心にした日常スケッチで描かれていたところが、『君の名は。』ではコメディとして提示されているのだ。これは観客へのミスリードも含め効果的だった。

では「実体のない喪失感」に捉えられた主人公はどう振る舞うのか。『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』第1話「桜花抄」では、「対象を取り戻したかに思われるが、再びそれを失う」という状態が描かれる。『ほしのこえ』はラストで主人公が宇宙にいくことがほのめかされるが、そこにあるのが希望なのか喪失感の確認なのかは、明確には描かれない。
『君の名は。』の瀧も同様で、「実体のない喪失感」に襲われた後、「対象を取り戻そうとして、再びそれを失う」ことになる。三葉の住んでいた山間の町を探し求め、ついにその場所がどこかを発見する。だが、そこは3年前に彗星のカケラが落下するという大災害により今は湖となっていたのだ。
では『君の名は。』は中盤以降、初期の作品の延長線上へと回帰しているのか。そんなことはない。

『君の名は。』は、『星を追う子ども』から始まった「いかにして“映画”という器にふさわしい物語を語るのか」という挑戦の延長線上にあり、そこでは「喪失感」を中心とする叙情を、いかに叙事=ストーリーの中に組み込んでいくかが試されている。
だから『君の名は。』を理解するには、『星を追う子ども』が最良の補助線といえる。(間に挟まった『言の葉の庭』は、60分の中編ということもあって、このラインからは若干はずれているので、今回は触れない)。

日本アニメーションからスタジオジブリへと通じる系譜の上にのるキャラクター造型や作画のスタイル、調理のシーンを丁寧に見せる演出などなど、“新海作品らしくない”と評されることが多い本作だが、実はストーリの根幹は極めて“新海誠的”だ。
同作の主人公・明日菜は、地下世界アガルタの少年シュンと出会い、つかの間の交流を果たす。だがシュンは死んでしまう。出会ったばかりのシュンが、さよならをいうこともなく死んでしまったことが、(明日菜が幼い頃死んだ父と呼応することもあり)明日菜の深い心の中に「実体のない喪失感」を残す。これが明日菜をアガルタへと導く一因となる。そしてアガルタで明日菜は改めてシュンに「さよなら」を告げることができる。
ここで描かれているのは、作中のセリフにもある通り「さよならを言うための旅」であり、それはつまり「対象を取り戻そうとして、再びそれを失う」ということにほかならない。
だが本作はそれを「美しい背景による日常のスケッチ」としてではなく。「アガルタへの冒険の旅」というストーリーと並行して描かれているのである。そしてその並行関係が、「感情がお話を進める」のではなく「お話のために感情はある」というふうに見えてしまった一因でもある。

一方『君の名は。』は、ストーリーと叙情を並行して展開していない。前半は瀧と三葉の個人的な感情、中盤は瀧の感情がストーリーを進めている。それが、時空を超えて大災害から町の人々を助けようとするという展開になることで、個々の感情が叙事の一部へと繋がる構成になっている。これによって叙情が叙事の中へとうまく組み込まれた。
『星を追う子ども』と『君の名は』が似ているポイントはもう一つある。それはクライマックスに用意された、世界の広がりだ。
『星を追う子ども』のクライマックスは、世界の果てを意味する聖地フィニス・テラで、“神”と邂逅するシーンだ。明日菜たちは、そこで目に見えないはずの世界の真理の一端に触れる。
『君の名は。』では、やはりクレーターによる窪地が聖地として登場し、死後の世界を意味する「かくりよ」と呼ばれている。瀧は「かくりよ」の中心にある社に赴き、時空を超えて三葉とコンタクトをとろうと試みる。
そこで明らかになるのは、「かくりよ」の社や壁画こそ、1000年前に起きた同種の彗星による大災害の記憶を留めるためのものということ。さらに、瀧と三葉の心が入れ替わったことにも実は意味があることが示される。

『秒速5センチメートル』第2話「コスモナウト」では、打ち上げられるロケットを描く大きな風景に、自らの孤独な旅を見るセリフが重ねられていた。だが『星を追う子ども』や『君の名は。』の超常体験が描くのは、もっと開放的だ。そこでは、個人の感傷は相対化され、大きなものへと開かれていく。それによって登場人物は救済を得る。
『星を追う子ども』で試みた叙情と叙事の両立を、より精度を高めて再び挑戦した『君の名は。』。そこでは、新海監督の「作りたいもの」「作れるもの」「作るべきもの」が、ついにくっきりと重なり合っている。記録的なヒットとなったのも当然のことといえる。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。 

《藤津亮太》

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