「クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか」(三原龍太郎):書評 曖昧な言葉の定義と今後の方向性 | アニメ!アニメ!

「クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか」(三原龍太郎):書評 曖昧な言葉の定義と今後の方向性

レビュー 書評

「クール・ジャパン」という言葉はなかなか面倒だ。「クール・ジャパン」を語るひとそれぞれが、言葉に対して異なるイメージを持つからだ。「クール・ジャパン」を巡る議論は、しばしば無意味にすれ違う。
ところが「クール・ジャパン」を巡る論争は多いが、そもそも「クール・ジャパン」が何であるか語られたことはあまりない。「クール・ジャパン」とは何だろうか?

そんな疑問に答えるのが、2014年4月に三原龍太郎が上梓した『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか 「熱狂」と「冷笑」を越えて』(中公新書ラクレ)である。本書は「クール・ジャパン」の本質に切り込んだ一冊だ。
ただし「クール・ジャパン」が題材とはなっているが、本書は主に2つのテーマから成り立っている。ひとつは国の政策としての「クール・ジャパン」である。経済政策やクリエイティブ産業の海外進出との関わりである。もうひとつは、海外での日本のコンテンツの受容の歴史と現状、分析である。やや異なるふたつの視点が絡み合いながら「クール・ジャパン」を明らかにする。

本書のタイトルはやや刺激的で、政策としての「クール・ジャパン」に目を向けさせる。さらに本書に対する意見もそうした視点で語られがちである。しかし、むしろ本書の読みどころは、この「クール・ジャパン」と呼ばれる状況がいかに生まれてきたのか、その分析だろう。
三原は第三章の「過去」と「現在」で、「クール・ジャパン」の言葉にもとになった2002年のダグラス・マックレイの論文を紐解き直す。同時に「クール・ジャパン」と呼ばれる現象が、これより遥か以前より始まっており、なぜここでそれが脚光を浴びたのかを解説する。
さらに第四章の「海外における実態」で、アニメを中心になぜ日本カルチャーが海外で受け入れられているのかにスポットにあてる。そして、日本アニメがメインカルチャーに対するカウンターカルチャーであること、オリエンタリズムとの関連も指摘する。それがクールかどうかは別として、現地カルチャーとの差異こそがクール・ジャパンの源泉といえるのだろう。クール・ジャパンを考えるうえで、重要な視点が多い。

一方、前半の国の「クール・ジャパン戦略」については、三原が見えない大きな敵に向かって孤軍奮戦しているように感じた。しかし、その敵は果たして存在するのだろうか?インターネット上の主張は、リアルな世界に比べて極端な意見が増幅しやすい。反「クール・ジャパン」のようなムーブメントの存在を私自身はあまり感じないからだ。
それは元官僚として「クール・ジャパン戦略」に携わった三原の「クール・ジャパン戦略」への世間の関心に対する歯がゆさなのかもしれない。ただ実際は「クール・ジャパン」の語感の悪さや、政府の支出のあり方とそのプロセスに疑問を呈することはあるものの、国の支援自体は否定する人は少ない。アニメ産業に関しては、たとえば海賊版対策や人材育成、海外進出支援などは国の支援が必要とする人は多い。
ただし、そうした個々の要望や「クール・ジャパン戦略」に対するイメージは前述のように様々だ。そこで最終章で三原が提示した「クール・ジャパン」の政策目的が説得力を持つ。クリエイティブ産業のための政策、輸出振興のための政策、経済が目的、政治・外交は従とする、などだ。もちろん全部が自身の考えと一致するわけでないが、これだけでもかなり論点がすっきりする。「クール・ジャパン戦略」のあり方を考える基盤にもなるだろう。『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか 「熱狂」と「冷笑」を越えて』を読むことで、「クール・ジャパン」の理解はかなり深まるはずだ。
[数土直志]

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