「21C:マドモアゼル・モーツァルト」から透けて見える“普遍的な世界”  | アニメ!アニメ!

「21C:マドモアゼル・モーツァルト」から透けて見える“普遍的な世界” 

[取材・構成: 高浩美] モーツァルトが女だったら・・・天才作曲家の生き様だけじゃない、『21C:マドモアゼル・モーツァルト』から透けて見える“普遍的な世界”

連載 高浩美のアニメ×ステージ/ミュージカル談義
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左)サリエリ(広田勇二)、右)モーツァルト(高野菜々)
左)サリエリ(広田勇二)、右)モーツァルト(高野菜々) 全 2 枚 拡大写真
高浩美のアニメ×ステージ&ミュージカル談義 第25回

モーツァルトが女だったら・・・天才作曲家の生き様だけじゃない、『21C:マドモアゼル・モーツァルト』から透けて見える“普遍的な世界”

[取材・構成: 高浩美]

■ 原作に寄り添わない面白さ

モーツァルトは女だったら・・・。この大胆な仮説に基づいたコミック『マドモアゼル・モーツァルト』、原作は福山庸治、このコミックは1989~1991年まで『モーニング』で連載されていた。近年はSTUDIO4°C制作のコンビネーション作品である『Genius Party(ジーニアス・パーティ)』の一遍である『ドアチャイム』(2007年)の原作・監督及びキャラクターデザインを担当。自分以外の自分に翻弄される高校生が不条理な世界に巻き込まれる様を描いている。
ちなみに『Genius Party(ジーニアス・パーティ)』は7人の個性的なクリエイター達が個性やセンスを発揮、前衛的でユニークな短編オムニバスである。『鉄筋コンクリート』などの先鋭的なアニメを生み出してきたSTUDIO4°C。ならでは、と言えよう。

近年、とりわけ今年に入ってからアニメやゲームを舞台化した作品はとにかく多い。その大半は“キャラクター命”である。
しかしこの作品はそうではない。設定・ストーリーこそコミック由来ではあるが、コミックから抜け出たような“モーツァルト”はいない。いわゆる“萌え台詞”もない。ここが他のコミック・アニメ・ゲームを基にした作品とは一線を画している。
“モーツァルト”、という実在の人物だからとも言えるが、コミックに寄り添うことは可能であったはず。そこをあえて寄り添わなかったところが面白さでもあり、いくらでも“改訂版”を創作出来る利点でもある。つまり“2次創作”的な要素があり、その“創作”部分がこのミュージカルの面白さ、見どころとなっている。

■ “女だけど諸事情により男として生きる”モーツァルト

コミックのモーツァルトは女でありながら、かなりの“オヤジ”であり、“お下品”な発言も多く、ここは戯曲の『アマデウス』と相似形に近い。ミュージカルもそのキャラクターは踏襲しているものの、中性的な魅力の中にも微妙に“女の子”らしさもチラホラ、ここは生身の女性が演じている妙、とも言える。
それに対して原作の作画はタッチや表情の微妙な具合で女性的な雰囲気を漂わせている。2次元の世界と舞台上での表現との相違点であるが、ここは見比べると面白いポイントであろうか。  

ところで“女だけど諸事情により男として生きるキャラクター”には有名な『ベルサイユのばら』のオスカルがいる。オスカルは女性、というのは周知の事実。アンドレは純粋に女性としてのオスカルに恋をする。
しかし、モーツァルトの場合は女であることは家族以外知らない。当時は女性だとわかると音楽的才能があってもその能力は発揮出来ない。だから、徹底的に嘘を突き通すよりほかにないのである。
つまり“世界を相手に大嘘”をついているのでモーツァルトに恋心を抱いてしまうサリエリは“自分はホモ?”と悩んでしまう。オスカルと比較すると“不幸”かもしれないが、音楽の天才的な才能と自身のエネルギーで時代を疾走する姿はむしろ清々しくもある。ここが他の“女性だけど男性として生きる”キャラクターとは一線を画しているのである。

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